LISMO portのソフトの更新表示が出たので何気なくOKしたら、しまったー、X-アプリ for LISMOがまた立ち上がらなくなった!!何度やっても、「データベースファイルが見つからない、または読み取れません。」と出る。「OKをクリックすると、データベースの復旧を試みます。」と一応出るけどOKしても、最終的には「データベースを更新できません。他のプログラムがデータベースを称している可能性があります。(エラーコード:000041a5)」と出る。これをネットで検索しても、再インストールするしかない、との冷たい回答しかない。
http://www.naruhodo-au.kddi.com/qa4362635.html
前回同様の症状が出た時は、全てインストールし直した。データはネット購入分も含め全て消え去り、機種変更時に旧携帯内のファイルはパソコンにも新携帯にも移せなかった(今は移せるのかもしれないが)。取得ポイントもあってauに忠誠を捧げてきたけど、こういちいちトラブるのでは、そろそろ限界かな・・・。
2010年12月31日金曜日
2010年12月30日木曜日
欲望は拡大する
AKB48愛も病膏肓に入るの感あり、最近では小野恵令奈ちゃんが可愛くって仕方がない、ってもういないのね(写真集を買ってしまった)。
と思ってたら、昨日ロンドンハーツの5時間スペシャルに大島麻衣ちゃんが出てました。恐ろしく可愛い・・・。それはフルーツポンチ村上だって我を忘れるって!!そんな麻衣ちゃんももういないのね。まあ麻衣ちゃんはテレビで見れるからまだいいですけどね。
でも、例えばすいえんサーとかは大島麻衣ちゃんがメイン司会の一人で、AKBの他のメンバーが実験ガール(すいえんサーガールズ)として出てくる、まさにアイドルカースト制度状態だったけど、今となっては立場も逆転気味ですね。平家みちよとモーニング娘。みたいなことにならないよう、麻衣ちゃんにも頑張って頂きたいものである。可愛いことは間違いないんだから。ロンブー淳にやたら腹黒呼ばわりされるのは気になるが(TVは影響力でかいからなー)。アイドルなんだから大目にみてやれよー。
と思ってたら、昨日ロンドンハーツの5時間スペシャルに大島麻衣ちゃんが出てました。恐ろしく可愛い・・・。それはフルーツポンチ村上だって我を忘れるって!!そんな麻衣ちゃんももういないのね。まあ麻衣ちゃんはテレビで見れるからまだいいですけどね。
でも、例えばすいえんサーとかは大島麻衣ちゃんがメイン司会の一人で、AKBの他のメンバーが実験ガール(すいえんサーガールズ)として出てくる、まさにアイドルカースト制度状態だったけど、今となっては立場も逆転気味ですね。平家みちよとモーニング娘。みたいなことにならないよう、麻衣ちゃんにも頑張って頂きたいものである。可愛いことは間違いないんだから。ロンブー淳にやたら腹黒呼ばわりされるのは気になるが(TVは影響力でかいからなー)。アイドルなんだから大目にみてやれよー。
M.I.W./自画像
久し振りに蓮實重彥の本を読んだものだから、いまシャンテシネでやってるゴダールの映画など観に行ってしまった(『ゴダール・ソシアリスム』)。
青山監督は激賞してます(パンフレット)が、やっぱり分かりませんなー、私のような素人には。キネマ旬報2010年12月下旬号でリドリー・スコット監督が「(劇場公開用映画を)3時間の長さにすると、劇場に来る観客に苦痛を与える。だいたいの場合、2時間半を過ぎると確実に劇場の雰囲気が変わりだすね。」と述べていますが、それはリドリーの映画の場合であって、月曜最後の回のシネシャンテでは、1時間で多くの頭が揺れだしました。私は思いましたよ、「リドリーが言ってたのはこれか」と。
あ、今気づいたのですが、青山監督のコメントには「ここには、いつにもまして何の変哲もない、ごく普通の映像と音響があるだけなのだ。」とありますが、これは相当ひねりの利いた一文ですね。どこに基準を置くかはともかく、ゴダールの映画の映像・音響は、通常の意味で「ごく普通」とは到底言えない(特に音響)ですからね。
ゴダールと言えば、エリック・ロメール監督の死を伝える蓮實氏の文章(『随想』)で、ネットを閲覧していた奥さんから、(奥さんが見つけたショッキングなニュース=後にロメールの死についてであることが分かる、について)心して聞けと言われた蓮實氏が、
と述べるその映画作家はゴダールに違いない、と思いつつ、Jeanはヨハネだろうが、Lucなんて使徒がいたのだろうか?やっぱり違うかな、と思いつつ、読み流していたが・・・。
後で、もしゴダールのことを言っているのであれば、Lucは(それらしい感じでいうと、)ルカかな、
と思い、wikiでルカのページを開いてフランス語のページに飛んで見たところ、やはりルカのフランス語の綴りはLucでした。
英語ではLuke(ルーク)ですが、ドーバー海峡を越える前はLuc(リュック)だったのね。
そう言えば、聖路加国際病院の読みはセイルカ・・・なんですよね。
今日のタイトルは、MATTAKU IMI WAKANNAI そんな私、という意味です。
青山監督は激賞してます(パンフレット)が、やっぱり分かりませんなー、私のような素人には。キネマ旬報2010年12月下旬号でリドリー・スコット監督が「(劇場公開用映画を)3時間の長さにすると、劇場に来る観客に苦痛を与える。だいたいの場合、2時間半を過ぎると確実に劇場の雰囲気が変わりだすね。」と述べていますが、それはリドリーの映画の場合であって、月曜最後の回のシネシャンテでは、1時間で多くの頭が揺れだしました。私は思いましたよ、「リドリーが言ってたのはこれか」と。
あ、今気づいたのですが、青山監督のコメントには「ここには、いつにもまして何の変哲もない、ごく普通の映像と音響があるだけなのだ。」とありますが、これは相当ひねりの利いた一文ですね。どこに基準を置くかはともかく、ゴダールの映画の映像・音響は、通常の意味で「ごく普通」とは到底言えない(特に音響)ですからね。
ゴダールと言えば、エリック・ロメール監督の死を伝える蓮實氏の文章(『随想』)で、ネットを閲覧していた奥さんから、(奥さんが見つけたショッキングなニュース=後にロメールの死についてであることが分かる、について)心して聞けと言われた蓮實氏が、
「われわれ二人にとってかけがえのない人物の訃報に違いなかろうと身構えながら、まさかと思いつつも覚悟を決め、今年で八十歳を迎えるある映画作家のファーストネイムを口にしてみる。名高い使徒の名前を二つ律儀に組み合わせた洗礼名であり、・・・」
と述べるその映画作家はゴダールに違いない、と思いつつ、Jeanはヨハネだろうが、Lucなんて使徒がいたのだろうか?やっぱり違うかな、と思いつつ、読み流していたが・・・。
後で、もしゴダールのことを言っているのであれば、Lucは(それらしい感じでいうと、)ルカかな、
と思い、wikiでルカのページを開いてフランス語のページに飛んで見たところ、やはりルカのフランス語の綴りはLucでした。
英語ではLuke(ルーク)ですが、ドーバー海峡を越える前はLuc(リュック)だったのね。
そう言えば、聖路加国際病院の読みはセイルカ・・・なんですよね。
今日のタイトルは、MATTAKU IMI WAKANNAI そんな私、という意味です。
2010年12月27日月曜日
世にもはしたない話 おまけ(風車小屋へ!)
内田樹のブログでは、蓮實重彥の批判を受けた直後の2009年の10月には村上春樹ノーベル文学賞受賞(注 実際には受賞してないからね)に対するコメントの予定稿をブログで公表しなかったようであるが、2010年にはまた予定稿の公表を復活させていた。懲りないねー。
ただし、2010年のブログではもう蓮實批判の部分はなくなった、どころか、「日本の批評家は村上春樹を無視している/評価していない」云々という記載もなくなっている。具体的には、このような書き方になった。
2008年の内田ブログでは、蓮實重彥氏が、村上春樹はグローバル化した社会に共通する先端的な風俗や感性のようなものを達者な筆致で描いているに過ぎない、と批判している(がそれには賛成できない)と書いてあった。ところが以前述べたとおり、蓮實氏に、自分はそんなことは言っていない、と反論されてしまったため、今回は批判の対象がぼかしてある。他の批評家の名前にすげ替えていないところを見ると、まあ要するに誰もそんなこと言っていなかったんでしょう。でも、誰も言ってないのに批判するって、ドンキホーテの風車小屋への進軍みたいですね。頑張るなあ。
ただし、2010年のブログではもう蓮實批判の部分はなくなった、どころか、「日本の批評家は村上春樹を無視している/評価していない」云々という記載もなくなっている。具体的には、このような書き方になった。
「村上春樹の世界性を担保しているのは、彼が『グローバル化した社会に共通する先端的な風俗や感性』のようなものを達者な筆致で描いているからではない。」
2008年の内田ブログでは、蓮實重彥氏が、村上春樹はグローバル化した社会に共通する先端的な風俗や感性のようなものを達者な筆致で描いているに過ぎない、と批判している(がそれには賛成できない)と書いてあった。ところが以前述べたとおり、蓮實氏に、自分はそんなことは言っていない、と反論されてしまったため、今回は批判の対象がぼかしてある。他の批評家の名前にすげ替えていないところを見ると、まあ要するに誰もそんなこと言っていなかったんでしょう。でも、誰も言ってないのに批判するって、ドンキホーテの風車小屋への進軍みたいですね。頑張るなあ。
世にもはしたない話 番外編
世界の文学がどの程度翻訳されているのかネットで検索してみた。
以下は翻訳が出ている国の数なのか言語の数なのか曖昧なものもあるし、作家単位・作品単位が混在しているし、また最新情報かもわからないのだが、まあ大体のことは分かるだろう。
内田樹氏の理屈によれば、『ノルウェイの森』(村上春樹)は『砂の女』(安部公房)より名作で、『ハリーポッター』より駄作だ、ということになりますね(世にもはしたない話1~3参照)。ハハハハハハ。
それにしても、『おっぱいとトラクター』って何よ。ちょっと読んでみたい。
以下は翻訳が出ている国の数なのか言語の数なのか曖昧なものもあるし、作家単位・作品単位が混在しているし、また最新情報かもわからないのだが、まあ大体のことは分かるだろう。
内田樹氏の理屈によれば、『ノルウェイの森』(村上春樹)は『砂の女』(安部公房)より名作で、『ハリーポッター』より駄作だ、ということになりますね(世にもはしたない話1~3参照)。ハハハハハハ。
安部公房 30ヶ国以上
砂の女 20数ヶ国語
小川洋子 10ヶ国以上
ノルウェイの森 36ヶ国/40ヶ国語 など諸説あり
ハーレクイン社の書籍 25言語94ヶ国
おっぱいとトラクター 37ヶ国
素数たちの孤独 30ヶ国
解剖学者 33ヶ国
悪魔とプリン嬢 30ヶ国
素粒子 30ヶ国
極道(ヤクザ)な月 10ヶ国以上
Bad Traffic「黒竜江から来た警部」 8ヶ国
イングリッシュローズィズ 37ヶ国語100ヶ国
トム・ラノワ 12ヶ国語以上
バトルフィールド・アース 12ヶ国
スティーグ・ラーソン推理・探偵小説三部作 25ヶ国
白夜の森 36ヶ国語
酔どれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行 十数ヶ国
ロバート・ラドラム 32ヶ国
ポール・オースター 20数ヶ国
ムーミン・シリーズ 40ヶ国語
ダレン・シャン 30言語37ヶ国
ミレニアム 40ヶ国
ジャン・フィリップ・トゥーサン 20ヶ国
食べて、祈って、恋をして 40ヶ国以上
オスカーとルシンダ 13ヶ国語
薔薇の名前 30数ヶ国語
ヘニング・マンケル 35ヶ国以上の言語
チャールズ・ブコウスキー 数十ヶ国
アイスウィンド・サーガ 世界15ヶ国語
ダ・ヴィンチ・コード 30数ヶ国語
眠りの兄弟 25ヶ国
小さな中国のお針子 30ヶ国
GONE WITH THE WIND 37ヶ国語
Karin Fossum 16ヶ国語
ナルニア国物語 29ヶ国語
チョコレート工場の秘密 32ヶ国語
ハリー・ポッター 67ヶ国語
指輪物語 25ヶ国
ライオンボーイ 34ヶ国
それにしても、『おっぱいとトラクター』って何よ。ちょっと読んでみたい。
2010年12月26日日曜日
世にもはしたない話3
前回、前々回の続き。
蓮實重彥氏はこんなだれでも思いつくような批判はわざわざしていないが、内田氏は村上春樹の小説が世界で売れていることと、その小説が名作であることとを混同している。
『指輪物語』の例を引くまでもなく、売れていることと名作であることは何の関連もない。内田氏は、優れた小説のランキングは世界で売れている順だとでも言うのだろうか。
内田氏は「蓮實は村上を罵倒する前に、どうして『表層批評宣言』が世界各国語で訳されて、世界各国から続々と「蓮實フォロワー」が輩出してこないのか、その理由についてせめて三分ほど考察してもよかったのではないか。」などと昔のブログで言っていたようだが(http://blog.tatsuru.com/archives/000407.php)、こんなもの3分どころか3秒考える必要もない。村上作品の方が読みやすく、読んで楽しいからである。蓮實重彥氏の本は難解で、また大部分の人にとっては読んで面白くない。ただそれだけのことである。私も村上春樹の小説は好きだが、「優れている」と思って読んでいるわけではない。だいたい、小説と文芸批評の読者数は全然違うでしょう。
ちなみに「蓮實フォロワー」の語が使用されているのは故意か偶然か分からぬが、日本の表層文化論の領域で蓮實重彥氏の影響力は絶大で、「立教ヌーベルバーグ」は言うに及ばず、まさに蓮實フォロワーが続々と輩出されてきている。せいぜい村上春樹が読めて蓮實重彥氏の文章は難しくて読めない(ネットで見る限り、内田ファンは蓮實氏他批評家の小難しい文章[レベルを落とした福田和也や小谷野敦を除く]など読んだことのないような人ばかりである)程度の読者相手にブログの使いまわしの文章を本にして売りつけている者がそこまで偉そうに見下してよい相手ではないと思うのだが。
蓮實重彥氏はこんなだれでも思いつくような批判はわざわざしていないが、内田氏は村上春樹の小説が世界で売れていることと、その小説が名作であることとを混同している。
『指輪物語』の例を引くまでもなく、売れていることと名作であることは何の関連もない。内田氏は、優れた小説のランキングは世界で売れている順だとでも言うのだろうか。
内田氏は「蓮實は村上を罵倒する前に、どうして『表層批評宣言』が世界各国語で訳されて、世界各国から続々と「蓮實フォロワー」が輩出してこないのか、その理由についてせめて三分ほど考察してもよかったのではないか。」などと昔のブログで言っていたようだが(http://blog.tatsuru.com/archives/000407.php)、こんなもの3分どころか3秒考える必要もない。村上作品の方が読みやすく、読んで楽しいからである。蓮實重彥氏の本は難解で、また大部分の人にとっては読んで面白くない。ただそれだけのことである。私も村上春樹の小説は好きだが、「優れている」と思って読んでいるわけではない。だいたい、小説と文芸批評の読者数は全然違うでしょう。
ちなみに「蓮實フォロワー」の語が使用されているのは故意か偶然か分からぬが、日本の表層文化論の領域で蓮實重彥氏の影響力は絶大で、「立教ヌーベルバーグ」は言うに及ばず、まさに蓮實フォロワーが続々と輩出されてきている。せいぜい村上春樹が読めて蓮實重彥氏の文章は難しくて読めない(ネットで見る限り、内田ファンは蓮實氏他批評家の小難しい文章[レベルを落とした福田和也や小谷野敦を除く]など読んだことのないような人ばかりである)程度の読者相手にブログの使いまわしの文章を本にして売りつけている者がそこまで偉そうに見下してよい相手ではないと思うのだが。
世にもはしたない話2
以下前回の続き。
さて、前回、ノーベル文学賞にからんで蓮實重彥氏が内田樹氏からの批判(?)に反論(?)した話を書いた。(詳しい内容、というか真の内容[あまりの膨大な情報量に私ではまとめ切れません]は蓮實重彥『随想』の1をお読み頂きたい。)
で、いちおう内田樹のブログというものを確認しておこうと思ったのだが、読んでみたところ、これが、蓮實重彥氏が批判した部分以外にも問題が多い。前回引用部を、その前の部分も含め引用しつつ考察してみよう。
引用元は、ここ。
ここでの「無視」は明らかに、批評家は村上春樹を肯定も否定も全くしない、という文字通りの意味である。「村上春樹を組織的に無視してきたことの説明が立たないから、書きようがないのである」、とわざわざ言っているからである。蓮實重彥はせめて評価はしているから見識がある、というのである。
しかし言うまでもなく、批評家は(村上春樹のノーベル賞受賞の予定コメント依頼に対してはともかく)村上春樹を無視などしていない。肯定・否定双方あると思うが、こぞって批評の対象にはしているのである。
内田本人も明らかに言いすぎと思ったらしく、5日後に再度ブログ記事をアップした。
あ~、「無視」してるかどうかが、「評価」してるかどうかに変わっっちゃってる!!
「自前の文学理論にあてはめてすぱすぱと作品の良否を裁定し、それで説明できない文学的事象は『無視する』というのなら、批評家の仕事は楽である」とまで言ってたのに、いつの間にか、良否の裁定はしてることにすり替えちゃった。
それから、他にもおかしな部分がある。内田氏ブログに戻ろう。
純文学の月刊誌の実売部数など知らないが、↑これはいかにも俗耳に入りやすい議論であり、実際誰も読んでいないというなら言った者勝ちなのだが(頭脳プレイ!!)、実際そんなことがあるものか!! 少なくとも、蓮實氏などは映画評論を通じて世界で勝負している。むしろフランスやアメリカの批評理論の直輸入すぎると批判されているくらいであろう。
そもそも、内田氏は偉そうに批評家の批判などしているが、批評家の論文など読んですらいない。
例えば、蓮實氏のいう「小説」と「国語」の問題は、蓮實氏の初期の著作『反=日本語論』から既に登場している。その問題系を要約すれば(本当は要約できないが、無理に言えば)、小説は近代国民国家の成立に際し、国語というものを確定するという役割を果たし、これによって国民国家の統合に加担した、という暗黒の歴史を持っている、そして、そんな文学形態の成立と同時にそのような役割に違和感を覚えたごく少数の優れた作家が、それを内側から食い破るような作品を残した、という問題意識である。(村上春樹の小説はこのような問題意識が余りにも希薄であり、評価できない、というのが蓮實氏の村上評である。・・・そうすると、その帰結として、村上春樹の小説は、常に国民国家=権力の側に与することになる、という点で、読むこと自体が反動的である、ということになるのではないかと思われる。実際、小説を読むことの反動性に鈍感であってはならないというような話が、『絶対批評宣言』の『男流文学論』の批評の項で書かれていたと記憶する。)
ところが、内田氏はそういう点を全く踏まえていない(知らないはず)。
以下は、松浦寿輝と川村湊が村上春樹の小説には日本近代文学の記憶の厚みがなく、土地も血も匂わない、と述べた部分に対する批判であり、内田氏の無知ぶりが垣間見える。
http://blog.tatsuru.com/archives/001433.php
これだけではちょっとわかりづらいかもしれないが、AとBの会話の部分は、松浦氏と川村氏の対談中、世界を東京に、日本を世田谷に変えたパロディ(のつもり)である。
要するに、松浦氏・川村氏は村上春樹には日本近代文学の記憶の重みがないなどと言っているが、世界の中の一地域であるに過ぎない「日本」と、例えばインドの違いにこだわるのは、世田谷区と目黒区の違いにこだわるのと同じで下らない、というのが内田氏の主張なのである。
上に述べたところでもうお分かりだろうが、「世田谷近代文学の記憶の厚み」はジョークでも、「日本近代文学の厚み」はジョークにはならない。前者には「国語」の問題がないのに対し、後者にはあるからだ。この両者の差は安易に「構造的に」還元できないのである。言うまでもなく、松浦寿輝と川村湊が「日本近代文学の厚み」について語るとき、上に述べたような「国語」の問題は、完全に議論の前提となっている。これは、おそらく文芸誌で文芸批評をするような批評家の(賛成反対はともかく)常識なのであろう(おそらく蓮實重彥著『反=日本語論』を読んでいない批評家はいないし、また同様の問題意識を持つ著作・著者も少なからずあると思われるからである。)
そうだとすると、内田氏が、現代の批評家は「身内相手の『内輪の符丁』」でものを語っている云々と批判するのも、単なる勉強不足で前提知識が不足している内田には批評家の書いていることの意味がよくわからない、ということに過ぎないのかもしれない。勉強不足に気づきすらせず他人を批判するとは、これまた「はしたない」議論ではある。
この項続く。
さて、前回、ノーベル文学賞にからんで蓮實重彥氏が内田樹氏からの批判(?)に反論(?)した話を書いた。(詳しい内容、というか真の内容[あまりの膨大な情報量に私ではまとめ切れません]は蓮實重彥『随想』の1をお読み頂きたい。)
で、いちおう内田樹のブログというものを確認しておこうと思ったのだが、読んでみたところ、これが、蓮實重彥氏が批判した部分以外にも問題が多い。前回引用部を、その前の部分も含め引用しつつ考察してみよう。
引用元は、ここ。
私のような門外漢に依頼がくるのは、批評家たちの多くがこの件についてのコメントをいやがるからである。
加藤典洋さんのように、これまで村上文学の世界性について長期的に考えてきた批評家以外は、村上春樹を組織的に無視してきたことの説明が立たないから、書きようがないのである。
だが、説明がつかないから黙っているというのでは批評家の筋目が通るまい。
批評家というのは「説明できないこと」にひきつけられる知性のことではないのか。
自前の文学理論にあてはめてすぱすぱと作品の良否を裁定し、それで説明できない文学的事象は「無視する」というのなら、批評家の仕事は楽である。
だが、そんな仕事を敬意をもって見つめる人はどこにもいないだろう。
蓮實重彦は村上文学を単なる高度消費社会のファッショナブルな商品文学にすぎず、これを読んでいい気分になっている読者は「詐欺」にかかっているというきびしい評価を下してきた。
私は蓮實の評価に同意しないが、これはこれでひとつの見識であると思う。
ここでの「無視」は明らかに、批評家は村上春樹を肯定も否定も全くしない、という文字通りの意味である。「村上春樹を組織的に無視してきたことの説明が立たないから、書きようがないのである」、とわざわざ言っているからである。蓮實重彥はせめて評価はしているから見識がある、というのである。
しかし言うまでもなく、批評家は(村上春樹のノーベル賞受賞の予定コメント依頼に対してはともかく)村上春樹を無視などしていない。肯定・否定双方あると思うが、こぞって批評の対象にはしているのである。
内田本人も明らかに言いすぎと思ったらしく、5日後に再度ブログ記事をアップした。
日本の批評家は村上春樹を評価していないと書いたら、以前『B學界』の編集長だったO川さんからメールを頂いて、村上春樹を評価している批評家はたくさんいますよと名前を教えていただいた。
「三浦雅士、清水良典、石原千秋、川村湊、藤井省三、鈴村和成、風丸良彦、荒川洋治、川本三郎(特に初期において、現在は批判的)、柴田元幸、沼野充義、和田忠彦、芳川泰久氏、ほかに若い批評家、学者は無数」ということだそうですので、先日のブログのコメントは訂正させていただきます。
あ~、「無視」してるかどうかが、「評価」してるかどうかに変わっっちゃってる!!
「自前の文学理論にあてはめてすぱすぱと作品の良否を裁定し、それで説明できない文学的事象は『無視する』というのなら、批評家の仕事は楽である」とまで言ってたのに、いつの間にか、良否の裁定はしてることにすり替えちゃった。
それから、他にもおかしな部分がある。内田氏ブログに戻ろう。
私は村上春樹にはぜひノーベル文学賞を受賞して欲しいと切望しているが、それは一ファンであるというだけの理由によるのではなく、この出来事をきっかけに日本の批評家たちにおのれの「ローカリティ」にいいかげん気づいて欲しいからである。
純文学の月刊誌の実売部数は3000部から5000部である。
この媒体の書き手が想定している読者は編集者と同業者と、将来編集者か作家か批評家になりたいと思っている諸君だけである。
そのような身内相手の「内輪の符丁」で書くことに批評家たちはあまりに慣れすぎてはいないか。
純文学の月刊誌の実売部数など知らないが、↑これはいかにも俗耳に入りやすい議論であり、実際誰も読んでいないというなら言った者勝ちなのだが(頭脳プレイ!!)、実際そんなことがあるものか!! 少なくとも、蓮實氏などは映画評論を通じて世界で勝負している。むしろフランスやアメリカの批評理論の直輸入すぎると批判されているくらいであろう。
そもそも、内田氏は偉そうに批評家の批判などしているが、批評家の論文など読んですらいない。
例えば、蓮實氏のいう「小説」と「国語」の問題は、蓮實氏の初期の著作『反=日本語論』から既に登場している。その問題系を要約すれば(本当は要約できないが、無理に言えば)、小説は近代国民国家の成立に際し、国語というものを確定するという役割を果たし、これによって国民国家の統合に加担した、という暗黒の歴史を持っている、そして、そんな文学形態の成立と同時にそのような役割に違和感を覚えたごく少数の優れた作家が、それを内側から食い破るような作品を残した、という問題意識である。(村上春樹の小説はこのような問題意識が余りにも希薄であり、評価できない、というのが蓮實氏の村上評である。・・・そうすると、その帰結として、村上春樹の小説は、常に国民国家=権力の側に与することになる、という点で、読むこと自体が反動的である、ということになるのではないかと思われる。実際、小説を読むことの反動性に鈍感であってはならないというような話が、『絶対批評宣言』の『男流文学論』の批評の項で書かれていたと記憶する。)
ところが、内田氏はそういう点を全く踏まえていない(知らないはず)。
以下は、松浦寿輝と川村湊が村上春樹の小説には日本近代文学の記憶の厚みがなく、土地も血も匂わない、と述べた部分に対する批判であり、内田氏の無知ぶりが垣間見える。
http://blog.tatsuru.com/archives/001433.php
たしかに、ウェストファリア条約以来、地政学上の方便で引かれた国境線の「こちら」と「あちら」では「土地や血の匂い」方がいくぶんか違うというのは事実だろう。
だが、その「違い」に固執することと、行政上の方便で引かれた「県境」の「こちら」と「あちら」での差違にもこだわりを示ことや、「自分の身内」と「よそもの」の差違にこだわることの間にはどのような質的差違があるのだろうか。
例えば、次のような会話をあなたはまじめに読む気になるだろうか?
A でも、これはマスターキーのような文学だと思った。どの錠前も開くから、東京中の人を引きつける。しかし、世田谷近代文学の記憶の厚みがなく、不意にどこからともなくやってきた小説という感じ。
B 目黒区の大学院生たちも、違和感がない、と言っていた。
奇妙な会話だ。
しかし、批評家たちがしゃべっているのは構造的には「そういうこと」である。
なぜ、「世田谷近代文学の記憶の厚み」はジョークになるのに、「日本近代文学の厚み」はジョークにならないのか?
これだけではちょっとわかりづらいかもしれないが、AとBの会話の部分は、松浦氏と川村氏の対談中、世界を東京に、日本を世田谷に変えたパロディ(のつもり)である。
要するに、松浦氏・川村氏は村上春樹には日本近代文学の記憶の重みがないなどと言っているが、世界の中の一地域であるに過ぎない「日本」と、例えばインドの違いにこだわるのは、世田谷区と目黒区の違いにこだわるのと同じで下らない、というのが内田氏の主張なのである。
上に述べたところでもうお分かりだろうが、「世田谷近代文学の記憶の厚み」はジョークでも、「日本近代文学の厚み」はジョークにはならない。前者には「国語」の問題がないのに対し、後者にはあるからだ。この両者の差は安易に「構造的に」還元できないのである。言うまでもなく、松浦寿輝と川村湊が「日本近代文学の厚み」について語るとき、上に述べたような「国語」の問題は、完全に議論の前提となっている。これは、おそらく文芸誌で文芸批評をするような批評家の(賛成反対はともかく)常識なのであろう(おそらく蓮實重彥著『反=日本語論』を読んでいない批評家はいないし、また同様の問題意識を持つ著作・著者も少なからずあると思われるからである。)
そうだとすると、内田氏が、現代の批評家は「身内相手の『内輪の符丁』」でものを語っている云々と批判するのも、単なる勉強不足で前提知識が不足している内田には批評家の書いていることの意味がよくわからない、ということに過ぎないのかもしれない。勉強不足に気づきすらせず他人を批判するとは、これまた「はしたない」議論ではある。
この項続く。
2010年12月25日土曜日
世にもはしたない話1
蓮實重彥『随想』を読んだ。
「1 文学の国籍をめぐる
はしたない議論の
あれこれについて」
は、まずこの題の「はしたない」がお上品で面白い。『凡庸さについてお話させていただきます』というのもあったな。(この『随想』には自分の新華族の出自からして、下層階級について書かれた樋口一葉の「十三夜」を、優れた作品と思いながらも、語る資格がないのではないかと考えていた話(こう書くと馬鹿馬鹿しく思うかも知れませんが、実際には、祖母のエピソードと「十三夜」の記述との連関について具体的な理由が書かれています)も出てきます。)
それはともかく、ここで「はしたない」人の筆頭に挙げられているのは、自分と同国籍の者がノーベル文学賞を取ること(または取らないこと)に対し、あからさまに希望・喜び(失望・落胆)を露わにする人々である。
2008年に同文学賞を受賞したル・クレジオ(フランス人)がモーリシャス出身であることを捉えて「半分は英国人」と書いたタイムズ紙の記者、「フランス文化の凋落」との見方を否定する快挙とするフランスの首相、物理学賞を取った南部陽一郎(米国籍)を当初日本人として報じた日本のマスコミや、日本国籍喪失を「もったいない」として国籍法の改正を検討し始めたという日本の政府与党などが挙げられている。
さらに批判はアメリカの作家を十把一絡げに否定するスウェーデン・アカデミー事務局長や、ル・クレジオの名すら知らなかったとあられもなく述べてしまったロサンジェルス・タイムズのスタッフ・ライターに及び、「日本人の特技であった」「あまりに孤立し、島国的な偏狭さ」(スウェーデン・アカデミー事務局長自身の言葉)は「どうやら日本人の特技ではなくなろうとしている」と著者は一旦結論づける。
この後、ル・クレジオはクロード・シモン(過去同様にノーベル文学賞を取ったフランス人作家)ほど優れてはいないが、文学賞など作品の文学的な価値の評価の基準たりうるとは思っていないから、一応優れた作家であるル・クレジオであろうが、川端であろうが村上春樹であろうが、誰が受賞しようともそれに反対などしないと話は続いていく。
さて、まったくもっておっしゃるとおりの議論であるが、ここまでは(蓮實氏はともかく、このブログにとっては)前振りである。
ここで唐突に(そう見えないように周到に叙述されているが)話は内田樹のブログの話になる。そこにこう書いてあるというのだ。
(上の箇所は、村上春樹ノーベル文学賞受賞のコメントの予定稿をS,K,Yの三新聞から求められた、という前振りに続く部分である。)
内田樹からすれば、自分のようなチンピラのブログごときを御大が気に留めるとは思わなかったのだろうが、「あるブログにそう書かれていたと教えられ」て読んだ内容がよほど気に障ったのか、蓮實氏はわざわざ反論している。
この内田氏のブログに対する蓮實氏の、
「この書き手の夢があっさりついえさったいま、この頓珍漢な文章に律儀に答えることはあるまいが、」
とのキツーイ前置きとともに始まる批判をだいたいまとめれば、次のとおりである。
・別に受賞に反対しない。(理由上述)
・内田の敬意などいらない。
・村上春樹を評価できないのは、「たかだか『近代』の発明にすぎない『国語』を自明の前提として書きつつある自分への懐疑の念が、この作家にはあまりにも希薄だ」から。「高度消費社会のファッショナブルな商品文学」などという「通俗的な理由で」否定しているのではない。
・ル・クレジオが今年受賞するのは周知の事実だった。そんな情報収集能力のない程度の低い記者に「適当にあしらわれているという屈辱感がまるで感じられない」。
・ノーベル賞の「受賞によって、『村上文学の世界性』が証明されるなどと、本気で思っている大学の教師がいるのだろうか。やれやれ。」
まあ、最初の、別に受賞に反対しないのに、という点は、内田も、
村上春樹が受賞した際に「スウェーデン・アカデミー・・・もバカばかりである」と
(言えるものなら)言ってみろ、(言えないだろう、)
と挑発しているだけで、
「反対しろ」
とまでは言っていないので、いささか被害妄想的だが、内田の真意はおそらく「反対しろ」ということなのだろうから、大した違いはあるまい。
いずれにしろ、万一村上春樹がノーベル賞を取ったときに蓮實氏がコメントを求められたら、たいした作家ではない、と自論を述べるのは目に見えている。そもそも、ノーベル賞受賞者の批判は、内田氏にとってはとんでもないことなのだろうが、大した賞ではないと考える人も結構多いはずだ(佐藤栄作が平和賞を受賞して以来、特にそうだろう。大江健三郎の文学賞受賞の際にも、実力を否定した人はいなかったと思うが、「戦後民主主義」とか、記念講演を批判した人は結構いたと記憶している)。
なお、蓮實氏ははっきり書いていないが、内田は受賞コメントの予定稿の中で「『村上春樹のノーベル文学賞受賞』というような日本文壇をあげてことほぐべき事件」と述べて、村上春樹がノーベル賞を取る=日本の文壇(日本人?)はこれを祝うべきということに一点の疑問も抱いていない。まさに蓮實氏言うところの「あまりに孤立し、島国的な偏狭さ」に陥った、「はしたない」議論を展開していると言えよう。
この項続く。
「1 文学の国籍をめぐる
はしたない議論の
あれこれについて」
は、まずこの題の「はしたない」がお上品で面白い。『凡庸さについてお話させていただきます』というのもあったな。(この『随想』には自分の新華族の出自からして、下層階級について書かれた樋口一葉の「十三夜」を、優れた作品と思いながらも、語る資格がないのではないかと考えていた話(こう書くと馬鹿馬鹿しく思うかも知れませんが、実際には、祖母のエピソードと「十三夜」の記述との連関について具体的な理由が書かれています)も出てきます。)
それはともかく、ここで「はしたない」人の筆頭に挙げられているのは、自分と同国籍の者がノーベル文学賞を取ること(または取らないこと)に対し、あからさまに希望・喜び(失望・落胆)を露わにする人々である。
2008年に同文学賞を受賞したル・クレジオ(フランス人)がモーリシャス出身であることを捉えて「半分は英国人」と書いたタイムズ紙の記者、「フランス文化の凋落」との見方を否定する快挙とするフランスの首相、物理学賞を取った南部陽一郎(米国籍)を当初日本人として報じた日本のマスコミや、日本国籍喪失を「もったいない」として国籍法の改正を検討し始めたという日本の政府与党などが挙げられている。
さらに批判はアメリカの作家を十把一絡げに否定するスウェーデン・アカデミー事務局長や、ル・クレジオの名すら知らなかったとあられもなく述べてしまったロサンジェルス・タイムズのスタッフ・ライターに及び、「日本人の特技であった」「あまりに孤立し、島国的な偏狭さ」(スウェーデン・アカデミー事務局長自身の言葉)は「どうやら日本人の特技ではなくなろうとしている」と著者は一旦結論づける。
この後、ル・クレジオはクロード・シモン(過去同様にノーベル文学賞を取ったフランス人作家)ほど優れてはいないが、文学賞など作品の文学的な価値の評価の基準たりうるとは思っていないから、一応優れた作家であるル・クレジオであろうが、川端であろうが村上春樹であろうが、誰が受賞しようともそれに反対などしないと話は続いていく。
さて、まったくもっておっしゃるとおりの議論であるが、ここまでは(蓮實氏はともかく、このブログにとっては)前振りである。
ここで唐突に(そう見えないように周到に叙述されているが)話は内田樹のブログの話になる。そこにこう書いてあるというのだ。
「蓮實重彦は村上文学を単なる高度消費社会のファッショナブルな商品文学にすぎず、これを読んでいい気分になっている読者は『詐欺』にかかっているというきびしい評価を下してきた。http://blog.tatsuru.com/2008/10/
私は蓮實の評価に同意しないが、これはこれでひとつの見識であると思う。
だが、その見識に自信があり、発言に責任を取る気があるなら、授賞に際しては『スウェーデン・アカデミーもまた詐欺に騙された。どいつもこいつもバカばかりである』ときっぱりコメントするのが筋目というものだろう。
私は蓮實がそうしたら、その気概に深い敬意を示す。」
(上の箇所は、村上春樹ノーベル文学賞受賞のコメントの予定稿をS,K,Yの三新聞から求められた、という前振りに続く部分である。)
内田樹からすれば、自分のようなチンピラのブログごときを御大が気に留めるとは思わなかったのだろうが、「あるブログにそう書かれていたと教えられ」て読んだ内容がよほど気に障ったのか、蓮實氏はわざわざ反論している。
この内田氏のブログに対する蓮實氏の、
「この書き手の夢があっさりついえさったいま、この頓珍漢な文章に律儀に答えることはあるまいが、」
とのキツーイ前置きとともに始まる批判をだいたいまとめれば、次のとおりである。
・別に受賞に反対しない。(理由上述)
・内田の敬意などいらない。
・村上春樹を評価できないのは、「たかだか『近代』の発明にすぎない『国語』を自明の前提として書きつつある自分への懐疑の念が、この作家にはあまりにも希薄だ」から。「高度消費社会のファッショナブルな商品文学」などという「通俗的な理由で」否定しているのではない。
・ル・クレジオが今年受賞するのは周知の事実だった。そんな情報収集能力のない程度の低い記者に「適当にあしらわれているという屈辱感がまるで感じられない」。
・ノーベル賞の「受賞によって、『村上文学の世界性』が証明されるなどと、本気で思っている大学の教師がいるのだろうか。やれやれ。」
まあ、最初の、別に受賞に反対しないのに、という点は、内田も、
村上春樹が受賞した際に「スウェーデン・アカデミー・・・もバカばかりである」と
(言えるものなら)言ってみろ、(言えないだろう、)
と挑発しているだけで、
「反対しろ」
とまでは言っていないので、いささか被害妄想的だが、内田の真意はおそらく「反対しろ」ということなのだろうから、大した違いはあるまい。
いずれにしろ、万一村上春樹がノーベル賞を取ったときに蓮實氏がコメントを求められたら、たいした作家ではない、と自論を述べるのは目に見えている。そもそも、ノーベル賞受賞者の批判は、内田氏にとってはとんでもないことなのだろうが、大した賞ではないと考える人も結構多いはずだ(佐藤栄作が平和賞を受賞して以来、特にそうだろう。大江健三郎の文学賞受賞の際にも、実力を否定した人はいなかったと思うが、「戦後民主主義」とか、記念講演を批判した人は結構いたと記憶している)。
なお、蓮實氏ははっきり書いていないが、内田は受賞コメントの予定稿の中で「『村上春樹のノーベル文学賞受賞』というような日本文壇をあげてことほぐべき事件」と述べて、村上春樹がノーベル賞を取る=日本の文壇(日本人?)はこれを祝うべきということに一点の疑問も抱いていない。まさに蓮實氏言うところの「あまりに孤立し、島国的な偏狭さ」に陥った、「はしたない」議論を展開していると言えよう。
この項続く。
2010年12月23日木曜日
祝 改行
さっきAKBINGOを見ていたら、クリスマスパーティーに誘う美人メールコンテストをやっていましたが、
前田敦子のメールが、鬼のように改行してて、ウケました。
メールも
改行
し
ま
く
り
なのね
あっちゃん
美人メールって、ロンドンハーツでやってなかったっけ。
関係ありませんが、この前秋元康のドキュメントをテレビでやってましたが、AKBメンバー初のソロシンガーシングルデビューが決まったとのことで、板野智美がレコーディングしてました。そうなんだ・・・
AKBはなんとなく口パクが多いような、そしてメインボーカルがいるような気がしてました。
もしいるとすれば、当然大島優子、前田敦子、高橋みなみ、といったところかと思いましたが・・・板野智美ちゃんだったの?
追記 その後正月のyoutube三昧を経て、AKB48は意外にも(ごめんなさい)みんなでちゃんと歌っていることが判明しました。普段低音ボイスの麻里子様も、甘い高音ボイスでアイドル・ソングをソロで熱唱なさっておりました。もっと聞き込んでいけば誰が歌っているか分かってくるのかなあ。
それで思い出したが、私はジャニーズのグループの歌は、初めて聴いた時とか、どのグループが歌っているのかよくわからない(長瀬君が一人で歌うTOKIOの曲と、KINKI KIDSの曲--剛君のビブラートで一発でわかる--は除く)。が、それを昔女の子に言ったら、「全然違うよ」と怒られた。皆さんはどうですか?
前田敦子のメールが、鬼のように改行してて、ウケました。
メールも
改行
し
ま
く
り
なのね
あっちゃん
美人メールって、ロンドンハーツでやってなかったっけ。
関係ありませんが、この前秋元康のドキュメントをテレビでやってましたが、AKBメンバー初のソロシンガーシングルデビューが決まったとのことで、板野智美がレコーディングしてました。そうなんだ・・・
AKBはなんとなく口パクが多いような、そしてメインボーカルがいるような気がしてました。
もしいるとすれば、当然大島優子、前田敦子、高橋みなみ、といったところかと思いましたが・・・板野智美ちゃんだったの?
追記 その後正月のyoutube三昧を経て、AKB48は意外にも(ごめんなさい)みんなでちゃんと歌っていることが判明しました。普段低音ボイスの麻里子様も、甘い高音ボイスでアイドル・ソングをソロで熱唱なさっておりました。もっと聞き込んでいけば誰が歌っているか分かってくるのかなあ。
それで思い出したが、私はジャニーズのグループの歌は、初めて聴いた時とか、どのグループが歌っているのかよくわからない(長瀬君が一人で歌うTOKIOの曲と、KINKI KIDSの曲--剛君のビブラートで一発でわかる--は除く)。が、それを昔女の子に言ったら、「全然違うよ」と怒られた。皆さんはどうですか?
草原の零度
もう1つだけ。映画版「ノルウェイの森」と小説版の大きな違いは、京都郊外の療養所近くの草原の体感温度だ。
小説では、暖かな、のどかな空間であるのに対して、映画版では、強風が吹き荒れたり(そこで手コキしてもらう)、朝露で濡れそぼっていたり(そこを薄ら寒いシャツ一枚で延々歩き回り、普段穏やかな直子がキレる)、沼のようになっていたり、雪が積もっている(そこで咥えてもらう)。何かと寒いのだ。これは、療養所の室内の温かさ、緑とのラブシーンの快適さ(夏の室内でのどこか涼しげなキスシーンはもちろん、雪の中の愛の告白シーンは、柔らかく抱き合う中にどこか暖かさを感じさせるのだ)との対比なのかもしれないが、その厳密な意図は、今のところよく分からない。
小説では、暖かな、のどかな空間であるのに対して、映画版では、強風が吹き荒れたり(そこで手コキしてもらう)、朝露で濡れそぼっていたり(そこを薄ら寒いシャツ一枚で延々歩き回り、普段穏やかな直子がキレる)、沼のようになっていたり、雪が積もっている(そこで咥えてもらう)。何かと寒いのだ。これは、療養所の室内の温かさ、緑とのラブシーンの快適さ(夏の室内でのどこか涼しげなキスシーンはもちろん、雪の中の愛の告白シーンは、柔らかく抱き合う中にどこか暖かさを感じさせるのだ)との対比なのかもしれないが、その厳密な意図は、今のところよく分からない。
人生の教師
「ノルウェイの森」には、素敵な彼女を持ちながら大学生で70人斬りを達成したという永沢という男が出てくる。主人公のワタナベは、永沢の彼女であるハツミさんの自殺後、一度も永沢に会っていない、と言う。なぜ永沢を毛嫌いするのか。
それは、近親憎悪である。直子がいながら緑を愛したワタナベくん、直子は自殺・・・。永沢と同じじゃんか。
ある意味では、永沢の性的遍歴は、「複数の女を愛するのもアリだよ」というメッセージとなって、後のワタナベの行動に影響を与えているのである。そのせいで結局直子を失い精神の奈落の底に落ちたワタナベが、永沢を憎むのも当然なのかもしれない。
死に向かう直子を止められなかったワタナベ、という読みをしているようでは、人の罪深さが分かってないですな。あ、えらそー。
それは、近親憎悪である。直子がいながら緑を愛したワタナベくん、直子は自殺・・・。永沢と同じじゃんか。
ある意味では、永沢の性的遍歴は、「複数の女を愛するのもアリだよ」というメッセージとなって、後のワタナベの行動に影響を与えているのである。そのせいで結局直子を失い精神の奈落の底に落ちたワタナベが、永沢を憎むのも当然なのかもしれない。
死に向かう直子を止められなかったワタナベ、という読みをしているようでは、人の罪深さが分かってないですな。あ、えらそー。
Dr.アン・ユンの鏡
映画『ノルウェイの森』で意外だったのは、ヒロイン役のキャスティング。
菊池凛子が清純っぽい直子、水原希子が元気な緑。普通に考えたら、逆じゃね?
でも、これと逆だと小説そのまんまだからね。
逆にしたのはわざとのような気もする。小説では直子はいつも髪留めをしてるようなんですが、映画では緑がいつも髪留めしてるんですね。(ちなみに緑の短髪も、それほど短髪でない。)
それにしても希子ちゃんかわいいね。怒ったときも微笑んでいる緑、監督の演出だそうですが、なんと魅力的なんでしょう!!松山ワタナベもころっと参るわけです。
演出と言えば、映画では緑は非常に穏やかにしゃべる。
で、なんでこういうキャスティングになったかなんですが、原作だと緑は超短髪のハッとするような美人で、しゃべりもとてもハキハキしている。
おそらく、実写でこれをやると、超短髪にした米倉涼子になる。どうです?萎えませんか?私は萎えます。
菊池凛子が清純っぽい直子、水原希子が元気な緑。普通に考えたら、逆じゃね?
でも、これと逆だと小説そのまんまだからね。
逆にしたのはわざとのような気もする。小説では直子はいつも髪留めをしてるようなんですが、映画では緑がいつも髪留めしてるんですね。(ちなみに緑の短髪も、それほど短髪でない。)
それにしても希子ちゃんかわいいね。怒ったときも微笑んでいる緑、監督の演出だそうですが、なんと魅力的なんでしょう!!松山ワタナベもころっと参るわけです。
演出と言えば、映画では緑は非常に穏やかにしゃべる。
で、なんでこういうキャスティングになったかなんですが、原作だと緑は超短髪のハッとするような美人で、しゃべりもとてもハキハキしている。
おそらく、実写でこれをやると、超短髪にした米倉涼子になる。どうです?萎えませんか?私は萎えます。
今週の第一位!! 「バーレスク」 (by 黒柳 & 久米)
この1週間で映画を4本見た。「ゲーマー」、「ノルウェイの森」、「ロビン・フッド」、「バーレスク」。
スペクタクルSFアクション大作、日本の純文学をフランス人監督が映画化、巨匠のコスチュームプレイ、人気歌手主演のミュージカル・・・ 映画には全てがある。
それぞれ良かったけど、映画ファンなら「ロビン・フッド」なのかな~。でも、意外にに「バーレスク」が一番良かったりする。他愛もない話なんだけどね。監督の映画への愛が伝わってくる。スタンリー・トゥッチ、やけに老けたなあ。メイク?
「ノルウェイの森」は、小説ではわかりづらかった緑との恋と直子の死の関連が露わに(緑に愛を告白した次のカットが・・・さすがに「ええっ」!!!)
あ、これも読んでね。
http://choitomemorandum-karadajoubu.blogspot.com/2010_09_01_archive.html
「ゲーマー」は、最初の10分でもう度肝を抜かれるでしょう。エンターテイメントなんですが、「ハート・ロッカー」みたいなヒリヒリ感が凄い!戦争シーンも凄いが、バイクでの逃走シーンとかも凄い映像だ!!
「ロビン・フッド」は、さすがのリドリー・スコット監督。戦争シーンのスペクタクルは圧倒的です。彼みたいに全てを撮り尽くした監督がたどり着くのが、ああいうシーンなのかも知れないですね。キングダム・オブ・ヘブンでは足りなかったんでしょうか。リドリーの作品は、エンタテイメントとしても完成している。「エイリアン」の昔から、ストーリー自体は俗っぽいと言っても過言ではない。それでもやっぱり、明らかに芸術なんですよね。
そして「バーレスク」。
これぞ映画なんじゃないでしょうか。あるシーンで、ああ、来るな、と分かっていたにもかかわらず、不覚にも鳥肌が立ちました。これはマストだ!!!
スペクタクルSFアクション大作、日本の純文学をフランス人監督が映画化、巨匠のコスチュームプレイ、人気歌手主演のミュージカル・・・ 映画には全てがある。
それぞれ良かったけど、映画ファンなら「ロビン・フッド」なのかな~。でも、意外にに「バーレスク」が一番良かったりする。他愛もない話なんだけどね。監督の映画への愛が伝わってくる。スタンリー・トゥッチ、やけに老けたなあ。メイク?
「ノルウェイの森」は、小説ではわかりづらかった緑との恋と直子の死の関連が露わに(緑に愛を告白した次のカットが・・・さすがに「ええっ」!!!)
あ、これも読んでね。
http://choitomemorandum-karadajoubu.blogspot.com/2010_09_01_archive.html
「ゲーマー」は、最初の10分でもう度肝を抜かれるでしょう。エンターテイメントなんですが、「ハート・ロッカー」みたいなヒリヒリ感が凄い!戦争シーンも凄いが、バイクでの逃走シーンとかも凄い映像だ!!
「ロビン・フッド」は、さすがのリドリー・スコット監督。戦争シーンのスペクタクルは圧倒的です。彼みたいに全てを撮り尽くした監督がたどり着くのが、ああいうシーンなのかも知れないですね。キングダム・オブ・ヘブンでは足りなかったんでしょうか。リドリーの作品は、エンタテイメントとしても完成している。「エイリアン」の昔から、ストーリー自体は俗っぽいと言っても過言ではない。それでもやっぱり、明らかに芸術なんですよね。
そして「バーレスク」。
これぞ映画なんじゃないでしょうか。あるシーンで、ああ、来るな、と分かっていたにもかかわらず、不覚にも鳥肌が立ちました。これはマストだ!!!
2010年10月21日木曜日
当たり前田の勉強家
以下、曾孫引きである。
摂津の国に住んでいたある富豪は儒学に長じていたが、彼が死んだ時にある老婆がこう言った。「これほど学問なさってさえもよい人であったのに、もし学問なさらなかったなら、どれほど善い人であったかなあ。」(「 」内は伴蒿蹊『近世綺人伝』を引用する渡辺京二『江戸という幻影』を引用する齋藤愼爾「或る〈反読書論〉の試み」(てんとう虫2010年11月号)より引用)。
渡辺氏は「そんなふうに学問なんぞわからずにすむ世界が、この時代には厳然と存在していた。そのことに私はなにか目のさめるような思いを覚える」と言っているそうです。齋藤愼爾氏も「こういう言葉を『畏ろしい』といわずして何と言おう」などと述べていますが・・・。
学問などするとろくな人間にならん、って、たしか『それから』の主人公の父親もそんなようなことを言ってたんじゃなかったっけ。学問をすると立派な人間になるなどというのは、学問が好きな人のたわごと・戯れ言です。何の論理的つながりもありません。そもそも、学問した人がそう言ったら、その時点で単なる自惚れでしょ?オレは立派な人間だ、と言ってる人が立派だった試しはない。
こういうのって結構多い。「我々の世代はもっと謙虚だ(から今の若い人より偉いのだ!)」「わが国国民は慎ましい(から○○人より偉いのだ!)」 ・・・ どこがだよ。
ちなみに、血液型に一番こだわるのは、A型の人です。人口に膾炙している血液型別性格では、A型だけが立派な性格とされています。そのせいで、A型の人が自分を立派だというために一生懸命血液型と性格を結び付けようとするのです。日本ではA型はマジョリティーです。そして、血液型別性格信仰があるのは、日本だけ(あと韓国)だそうです。
ところで、伴蒿蹊『近世綺人伝』は岩波文庫にも入っている。渡辺氏だの齋藤氏だの、今頃こんな基本文献読んで驚いてる(齋藤氏は読んですらいない)ようでは、文化人失格ですな。私?私は文化人じゃありませんから。単なるブロガーです。
まあでも、近世綺人伝は、今度読んでみよう。
摂津の国に住んでいたある富豪は儒学に長じていたが、彼が死んだ時にある老婆がこう言った。「これほど学問なさってさえもよい人であったのに、もし学問なさらなかったなら、どれほど善い人であったかなあ。」(「 」内は伴蒿蹊『近世綺人伝』を引用する渡辺京二『江戸という幻影』を引用する齋藤愼爾「或る〈反読書論〉の試み」(てんとう虫2010年11月号)より引用)。
渡辺氏は「そんなふうに学問なんぞわからずにすむ世界が、この時代には厳然と存在していた。そのことに私はなにか目のさめるような思いを覚える」と言っているそうです。齋藤愼爾氏も「こういう言葉を『畏ろしい』といわずして何と言おう」などと述べていますが・・・。
学問などするとろくな人間にならん、って、たしか『それから』の主人公の父親もそんなようなことを言ってたんじゃなかったっけ。学問をすると立派な人間になるなどというのは、学問が好きな人のたわごと・戯れ言です。何の論理的つながりもありません。そもそも、学問した人がそう言ったら、その時点で単なる自惚れでしょ?オレは立派な人間だ、と言ってる人が立派だった試しはない。
こういうのって結構多い。「我々の世代はもっと謙虚だ(から今の若い人より偉いのだ!)」「わが国国民は慎ましい(から○○人より偉いのだ!)」 ・・・ どこがだよ。
ちなみに、血液型に一番こだわるのは、A型の人です。人口に膾炙している血液型別性格では、A型だけが立派な性格とされています。そのせいで、A型の人が自分を立派だというために一生懸命血液型と性格を結び付けようとするのです。日本ではA型はマジョリティーです。そして、血液型別性格信仰があるのは、日本だけ(あと韓国)だそうです。
ところで、伴蒿蹊『近世綺人伝』は岩波文庫にも入っている。渡辺氏だの齋藤氏だの、今頃こんな基本文献読んで驚いてる(齋藤氏は読んですらいない)ようでは、文化人失格ですな。私?私は文化人じゃありませんから。単なるブロガーです。
まあでも、近世綺人伝は、今度読んでみよう。
2010年10月12日火曜日
お坊ちゃん
北朝鮮の後継者がお披露目されたようだが、えらいしょーもないルックスやな~。
ぬくぬく育てられたお坊ちゃんそのものの風貌。
「親譲りの家柄で子供の頃から得ばかりしている。」・・・
「名前はまだ読みがよくわからない。」
ぬくぬく育てられたお坊ちゃんそのものの風貌。
「親譲りの家柄で子供の頃から得ばかりしている。」・・・
「名前はまだ読みがよくわからない。」
今日の英単語:remorse
今日の英単語 :remorse
深い後悔のこと。
後悔と言えばregretですが、
オックスフォード新英英辞典では、romorseの説明として、
deep regret or guilt for a wrong comitted
と書かれています。
そうすると、この文章の意味はどうなるのでしょうか?
I can have remorse, but no regrets.
(Karl Lagerfeld)
http://twitter.com/#!/Karl_Lagerfeld
後悔するときは常に深く深く後悔するのだ、私は、
という意味でしょうか。
深い後悔のこと。
後悔と言えばregretですが、
オックスフォード新英英辞典では、romorseの説明として、
deep regret or guilt for a wrong comitted
と書かれています。
そうすると、この文章の意味はどうなるのでしょうか?
I can have remorse, but no regrets.
(Karl Lagerfeld)
http://twitter.com/#!/Karl_Lagerfeld
後悔するときは常に深く深く後悔するのだ、私は、
という意味でしょうか。
2010年9月23日木曜日
Original 芯
「ノルウェイの森」の続きを読んだから、いつぞやの宿題を片付けておこう。
宿題というのは、この小説に、「緑(という大学の同級生の女性)と恋に落ちたワタナベくん(男性。主人公)が、もう一人の思い人直子(死んだ親友の彼女で、精神病院入院中。彼女はワタナベくんを愛してはいない)との関係の維持できないと思い始めた」というくだりがあったかを確かめるということだった。
緑と互いの愛を確かめ合ったワタナベくんは、直子のルームメイトのレイコさんにそれを手紙で知らせる。
しかし、レイコさんから、それは自然なことであり、気に病む必要はない、ただ直子に言うのは危険だからやめようという返事が来る。ここがミソである。
おそらく多くの女性の読者は、緑と深い関係になることを選択したワタナベくんは、直子との関係を変えざるを得ない、と思うかもしれない。しかし、男性の視点で言えば、必ずしもそうはならない。この時点で、直子はもともと精神病院にいて滅多に会えず、ワタナベくんはもっぱら手紙を通じてしか直子とコミュニケーションをとっていないのである。緑とよろしくやって、直子との関係も今までどおりにするなど、造作もないことである。ワタナベくんはそれを気に病むような男でないことは、前半の場面に散りばめられた他の女性たちとのストーリーで明らかである(というか、ワタナベくんが男であるという一点からして明らかである。男とはそういうものだ)。よき相談者のレイコさんも、緑とのことを直子に言わなくていい、と都合のよいアドバイスをしてくれているではないか。
このようなものの見方は、男女の愛は1対1の関係でなければならぬと信じる平均的女性たちにとっては許しがたいものであるが、男性の多くは、あわよくばこのようなシチュエーションが成り立たないものか、という願望を内に秘めているものである。この小説では、この男性的目線での読みが困難なように書かれていて、だからこそ女性の共感を呼んだのであるが、「困難」なだけであって、男性的目線での読みが全く排除されているわけではない。レイコさんへの手紙にも、僕はどうしたらよいでしょう、と言っているだけであって、「僕は今までのように直子に接することができない」とは書いていないのである。(意地悪な見方をすると、ワタナベくんの手紙は「レイコさんから直子にうまく言っといて。それで直子が壊れても、僕は責任取らないけど。」という手紙にすら見えるのである。)
直子が自殺する原因も、(周到にそうでないように読めるように書かれているが、)ワタナベくんの裏切りにあることは明白である。(直子は緑とワタナベくんの仲の進展を知らないはずだって?小説で叙述された出来事は、読者に明らかとなった以上、登場人物にとっても常に明らかであらざるを得ないのだ!)
私が思うに、ワタナベくんが二股をかけたこと自体は、別に反倫理的というわけではない。男とはそういうものだし、いずれにしろ彼は自分の全存在を賭けてそれを選んだのだ。直子が死んだのは、無論ワタナベくんの責に帰すべきである。しかし、それは男のもっとも本質的部分の性質(芯、ね)に由来する行動の産物であり、いわば女性に対する男性の原罪ともいうべきものである。問題は、ワタナベくんが自らの罪を自覚していない点にある。直子が死んで、おそらくはそれが自分の二股と関係があるとワタナベくんもうすうす気づいてはいる。にもかかわらず、(誰のせいでもない、と言うレイコさんに対して)「そんなことはもうどうでもいいことなのだ。直子はもうこの世界には存在せず、一握りの灰になってしまったのだ。」などと独白する主人公。何が「どうでもいいこと」だ。なぜ「そうではない。俺のせいだ。」と自分の選択の責任を引き受けようとしないのだ。そのことが、この男のもっとも反倫理的なところなのだ。ワタナベくんは、小説冒頭部の、直子の死から20年後のシーンで、いまだ直子の死を引きずっており、あまり幸せでないように見える。なぜひきずるのか、それが単なる感傷からでなく、一度も正面から責任を引き受けなかった下衆野郎だからであることは実は明らかであり、それにワタナベくん、作者、ひいては読者すらも気づいていない点が、この小説のまさにベストセラーになった理由である。倫理的な小説など、誰も読みたくはないのだ。
宿題というのは、この小説に、「緑(という大学の同級生の女性)と恋に落ちたワタナベくん(男性。主人公)が、もう一人の思い人直子(死んだ親友の彼女で、精神病院入院中。彼女はワタナベくんを愛してはいない)との関係の維持できないと思い始めた」というくだりがあったかを確かめるということだった。
緑と互いの愛を確かめ合ったワタナベくんは、直子のルームメイトのレイコさんにそれを手紙で知らせる。
しかし、レイコさんから、それは自然なことであり、気に病む必要はない、ただ直子に言うのは危険だからやめようという返事が来る。ここがミソである。
おそらく多くの女性の読者は、緑と深い関係になることを選択したワタナベくんは、直子との関係を変えざるを得ない、と思うかもしれない。しかし、男性の視点で言えば、必ずしもそうはならない。この時点で、直子はもともと精神病院にいて滅多に会えず、ワタナベくんはもっぱら手紙を通じてしか直子とコミュニケーションをとっていないのである。緑とよろしくやって、直子との関係も今までどおりにするなど、造作もないことである。ワタナベくんはそれを気に病むような男でないことは、前半の場面に散りばめられた他の女性たちとのストーリーで明らかである(というか、ワタナベくんが男であるという一点からして明らかである。男とはそういうものだ)。よき相談者のレイコさんも、緑とのことを直子に言わなくていい、と都合のよいアドバイスをしてくれているではないか。
このようなものの見方は、男女の愛は1対1の関係でなければならぬと信じる平均的女性たちにとっては許しがたいものであるが、男性の多くは、あわよくばこのようなシチュエーションが成り立たないものか、という願望を内に秘めているものである。この小説では、この男性的目線での読みが困難なように書かれていて、だからこそ女性の共感を呼んだのであるが、「困難」なだけであって、男性的目線での読みが全く排除されているわけではない。レイコさんへの手紙にも、僕はどうしたらよいでしょう、と言っているだけであって、「僕は今までのように直子に接することができない」とは書いていないのである。(意地悪な見方をすると、ワタナベくんの手紙は「レイコさんから直子にうまく言っといて。それで直子が壊れても、僕は責任取らないけど。」という手紙にすら見えるのである。)
直子が自殺する原因も、(周到にそうでないように読めるように書かれているが、)ワタナベくんの裏切りにあることは明白である。(直子は緑とワタナベくんの仲の進展を知らないはずだって?小説で叙述された出来事は、読者に明らかとなった以上、登場人物にとっても常に明らかであらざるを得ないのだ!)
私が思うに、ワタナベくんが二股をかけたこと自体は、別に反倫理的というわけではない。男とはそういうものだし、いずれにしろ彼は自分の全存在を賭けてそれを選んだのだ。直子が死んだのは、無論ワタナベくんの責に帰すべきである。しかし、それは男のもっとも本質的部分の性質(芯、ね)に由来する行動の産物であり、いわば女性に対する男性の原罪ともいうべきものである。問題は、ワタナベくんが自らの罪を自覚していない点にある。直子が死んで、おそらくはそれが自分の二股と関係があるとワタナベくんもうすうす気づいてはいる。にもかかわらず、(誰のせいでもない、と言うレイコさんに対して)「そんなことはもうどうでもいいことなのだ。直子はもうこの世界には存在せず、一握りの灰になってしまったのだ。」などと独白する主人公。何が「どうでもいいこと」だ。なぜ「そうではない。俺のせいだ。」と自分の選択の責任を引き受けようとしないのだ。そのことが、この男のもっとも反倫理的なところなのだ。ワタナベくんは、小説冒頭部の、直子の死から20年後のシーンで、いまだ直子の死を引きずっており、あまり幸せでないように見える。なぜひきずるのか、それが単なる感傷からでなく、一度も正面から責任を引き受けなかった下衆野郎だからであることは実は明らかであり、それにワタナベくん、作者、ひいては読者すらも気づいていない点が、この小説のまさにベストセラーになった理由である。倫理的な小説など、誰も読みたくはないのだ。
2010年9月12日日曜日
今日の英単語 そしてノルウェー製木材の味
introspective: 内省的な
intro- は内側へ、中へ
spective はspectate 見る などと同根であろう。
アマゾンのNorwegian Wood の紹介文で発見。a beautiful and introspective young woman 、これすなわち直子のこと、
対する緑は、a vibrant, outgoing young woman となっとります。
ところで、この紹介文によれば、
As he(主人公のワタナベトオル君) falls in love with her(緑), Toru realizes he cannot continue his relationship with Naoko, ...
つまり、ワタナベ君は緑と恋に落ちて、直子との関係を続け難く思い始めた、
とあるのだが、そんな話だったっけ?久し振りにまた読みはじめて、いま上巻を読み終わったところ(言っとくけど日本語で読んでます)ですが、よく確認してみよう。
再び話がずれるが、「ワタナベトオル」は常にカタカナ表記である。「渡辺徹」なのかな?そりゃ漢字で書けないなあ。緑が榊原郁恵に思えてきたら、ぶち壊しだからなあ。
intro- は内側へ、中へ
spective はspectate 見る などと同根であろう。
アマゾンのNorwegian Wood の紹介文で発見。a beautiful and introspective young woman 、これすなわち直子のこと、
対する緑は、a vibrant, outgoing young woman となっとります。
ところで、この紹介文によれば、
As he(主人公のワタナベトオル君) falls in love with her(緑), Toru realizes he cannot continue his relationship with Naoko, ...
つまり、ワタナベ君は緑と恋に落ちて、直子との関係を続け難く思い始めた、
とあるのだが、そんな話だったっけ?久し振りにまた読みはじめて、いま上巻を読み終わったところ(言っとくけど日本語で読んでます)ですが、よく確認してみよう。
再び話がずれるが、「ワタナベトオル」は常にカタカナ表記である。「渡辺徹」なのかな?そりゃ漢字で書けないなあ。緑が榊原郁恵に思えてきたら、ぶち壊しだからなあ。
Okinawan brother?
夏川りみの歌う「涙そうそう」、作詞は沖縄出身の夏川だとばかり思っていたが、森山良子だったんですね。「にいにいー!!」の長澤まさみが後の夏川りみだとばっかり・・・大いなる勘違いだったか。
そうか、森山良子は沖縄出身だったのか、って、ぜんぜん違うじゃん、成城学園高校出身ってバリバリお嬢のバリバリ東京人じゃん。
結局あの映画はなんだったの?森山の兄が不整脈か何かで早世したのは確からしい、が、妻夫木聡演じるにいにいのように、貧乏で働きすぎて亡くなったわけではないのも、これまた確かであろう。
そうか、森山良子は沖縄出身だったのか、って、ぜんぜん違うじゃん、成城学園高校出身ってバリバリお嬢のバリバリ東京人じゃん。
結局あの映画はなんだったの?森山の兄が不整脈か何かで早世したのは確からしい、が、妻夫木聡演じるにいにいのように、貧乏で働きすぎて亡くなったわけではないのも、これまた確かであろう。
2010年9月11日土曜日
2010年9月5日日曜日
Route42
木村カエラの「Level42」っていう歌、「level42」ってなんのことかな?
「素敵な人生のはじまり
思ってるよりよくなるから」
なんて、人生応援歌っぽい、よくある歌詞のような気がするんだけど、
「42」って言われると、・・・
やっぱり「死に」なのかな?
自殺をしようとしてるあなた、人生きっといいことあるよ、だから自殺なんて考えちゃだめ、って歌なんでしょうか?
ちなみに、引用部分の次は、
「君のためにずっと歌ってあげるから」
と続く。ちょっと上から目線である。自殺はいかんとか言ってる人って、大体偉そうなんだよね。
ぜんぜん関係ないけど、ラルクの歌に「Route666」ってあるね。
「地平をふさぐ陽炎の先に標的を見る
加速してゆく鼓動の中で奴に手が届く
明日へ向けてまわれ
夢に踊れ砂漠で」
いいじゃない。自殺を止めたいなら、こっちの方が利くんじゃないかな。
こういうのもある。
「もう数えるくらいで僕らは消え失せて真っ暗な朝が来るね
お気に入りの服にさあ着がえたなら駆け出して」(「Driver's high」いずれも作詞はhyde)
やがて来るのは「真っ暗な」朝だし、すぐに消えうせてしまうこの命だけれども、それでもかっこつけていこう、いま生を燃やし尽くそう、ということでしょう。
なんていい詞を書くんだ hyde!!
この2曲は、曲(後者はベースのtetsu作)・演奏もいいんだよね、これが。
カエラちゃんは、少しラルクを見習ったほうがいいかも。
「素敵な人生のはじまり
思ってるよりよくなるから」
なんて、人生応援歌っぽい、よくある歌詞のような気がするんだけど、
「42」って言われると、・・・
やっぱり「死に」なのかな?
自殺をしようとしてるあなた、人生きっといいことあるよ、だから自殺なんて考えちゃだめ、って歌なんでしょうか?
ちなみに、引用部分の次は、
「君のためにずっと歌ってあげるから」
と続く。ちょっと上から目線である。自殺はいかんとか言ってる人って、大体偉そうなんだよね。
ぜんぜん関係ないけど、ラルクの歌に「Route666」ってあるね。
「地平をふさぐ陽炎の先に標的を見る
加速してゆく鼓動の中で奴に手が届く
明日へ向けてまわれ
夢に踊れ砂漠で」
いいじゃない。自殺を止めたいなら、こっちの方が利くんじゃないかな。
こういうのもある。
「もう数えるくらいで僕らは消え失せて真っ暗な朝が来るね
お気に入りの服にさあ着がえたなら駆け出して」(「Driver's high」いずれも作詞はhyde)
やがて来るのは「真っ暗な」朝だし、すぐに消えうせてしまうこの命だけれども、それでもかっこつけていこう、いま生を燃やし尽くそう、ということでしょう。
なんていい詞を書くんだ hyde!!
この2曲は、曲(後者はベースのtetsu作)・演奏もいいんだよね、これが。
カエラちゃんは、少しラルクを見習ったほうがいいかも。
2010年9月4日土曜日
表とウラ
経営者たらんとするもの、やはり経営学やファイナンスの基本は押さえておいていただかないといけない。
企業は生き物、「机上の空論」で割り切れるものではない、と言う人もいるかもしれない。
しかし、それは、「気象学など学んでも天気予報は当たらない」というのと同じである。確かに当たらないかも知れないが、天気予報で、「私の経験では、下駄を放って表が出たら晴れで、裏が出たら雨です。」と言われても困る。「理論だけでは足りない」だけであって理論不要、というわけでは全然ない。
仮にも長年会社で経験を積んできた人の実践知を迷信と一緒にするな、というお叱りがあるかもしれないが、似たようなもんかもしれないよ。たとえば私が子供のころは、野球のピッチャーは肩を冷やしちゃいけないとか、運動している時は水分を補給してはいけないとか、体力つけるには兎跳びが一番とか、スポーツに関して、まあめちゃくちゃな非科学的言説がまかり通っていた。これらは現在みな科学的に否定されているわけだが、当時の大人は本気で信じていた。経験のみから導き出された「知識」なんて、ま、こんなものではないだろうか。
企業は生き物、「机上の空論」で割り切れるものではない、と言う人もいるかもしれない。
しかし、それは、「気象学など学んでも天気予報は当たらない」というのと同じである。確かに当たらないかも知れないが、天気予報で、「私の経験では、下駄を放って表が出たら晴れで、裏が出たら雨です。」と言われても困る。「理論だけでは足りない」だけであって理論不要、というわけでは全然ない。
仮にも長年会社で経験を積んできた人の実践知を迷信と一緒にするな、というお叱りがあるかもしれないが、似たようなもんかもしれないよ。たとえば私が子供のころは、野球のピッチャーは肩を冷やしちゃいけないとか、運動している時は水分を補給してはいけないとか、体力つけるには兎跳びが一番とか、スポーツに関して、まあめちゃくちゃな非科学的言説がまかり通っていた。これらは現在みな科学的に否定されているわけだが、当時の大人は本気で信じていた。経験のみから導き出された「知識」なんて、ま、こんなものではないだろうか。
2010年8月28日土曜日
わしゃモテンきに
深夜ドラマでやってる「モテキ」が熱い!!
まずキャスティングがありえないほどはまっている。
暗い、もてない、オタク趣味だが、実は女の子によっては「こういうタイプのルックス結構趣味!」などと思われたりもする主人公藤本幸世
・・・森山未來。
地味目に見えたりもするが、実は超可愛くて、服装しだいでゴージャスになったりエロくなったりする20代後半の彼女第一候補土井亜紀
・・・野波麻帆。
女度低め、恋愛苦手の、処女コンプレックスのオタク友達、カメラマン助手の20代前半の彼女第二候補中柴いつか
・・・満島ひかり。
モデル級の完璧ルックス超ゴージャス美女にして、主人公を振り回す魔性の女小宮山夏樹
・・・松本莉緒。
地方の地元のバツイチ元ヤン女で、主人公にカツを入れ続けてくれる姉御女林田尚子
・・・菊池凛子。
イケメンではないが男らしく気さくで頼れる性格ゆえに、女にもモテモテのリア充男の親友(たまに主人公を裏切る)島田雄一
・・・新井弘文。
どうだろう。これらの説明に当てはまる俳優として、実際のキャスト以外の候補が思い浮かぶだろうか?
単に役にぴったりというだけではない。さらにすごいと思うのは、
・モテない男の設定であるにもかかわらず、主人公である以上、実はスター性のある俳優でないといけないという点もクリア。地味女も同じ。
・ゴージャス女と超ゴージャス女の微妙なゴージャス感の違いがちゃんと出てる。
・深夜ドラマに菊池凛子。しかも、重要な役かも知れないが、完全脇役で。
・言うまでもないことだが、全員演技がうまい!!みんな、映画中心に頑張っている俳優さんですよね。
・松本莉緒も濃厚キスシーンに体当たり。
こんなキャストが渾身の演技をしているドラマで、面白くないわけがない。
このドラマは「ドラマ24」というテレビ東京のドラマ枠で、ちょうど20作目らしく、タイトルに「ドラマ24 第20弾特別企画」とついています。
たぶん金も少し多目に使ってるんじゃないかな。
タイトルバックはいきなりバレットタイム撮影してるし。
それにしても、このドラマであらためて野波麻帆の美しさを再認識しました。彼女をはじめて知ったのは、深田恭子主演の「そして、ともだち」(2000年)でしたが、あれからもう10年になりますか。彼女ももう30歳なんですね。相変わらず綺麗だわ。
しかもこのドラマでは、妄想癖のある漫画家の空想シーンや、麻帆ちゃんが一人で部屋でくつろいでいるシーンで、とってもナイスな下着姿も観ることができます。かなりエロいっす。深夜ドラマでよかった。ありがとう監督・脚本さん!!
まあそういう点を置くとしても、このドラマはストーリー展開もすごく面白いし(原作は相当売れてる漫画です)、いろいろ小ネタも利いているし(リリーフランキーが演じてるエロ中年の猥談に「リリーフランキーかよ」みたいな台詞があったり)、感情に訴えかける名シーンも多いし(満島ひかり演じるいつかちゃん(DEATH NOTEの夜神月の妹役だった娘も濃厚キスシーンを演じられる大人になりました)の「ロックンロールは鳴り止まないっ」熱唱シーンは、ドラマ史に残る!)、芸達者の俳優陣は熱演してるし(リリーだけキャラ設定が漫画と変わっちゃってんだけど、この人もうまいねー、すごい説得力)、映像的にもよくできてるし(手持ちカメラも効果的に使用)、今のところ視聴率は普通みたいなんだけど、そのうち伝説のドラマになるんじゃないの?
DVDはディレクターズカットで全く違うものになると思いますので、放送バージョンはゼッタイ観ておく方がいいと思いますよ。君も歴史の証人になれ!!
このドラマについてはほかにもいっぱい言いたいことあるけど、今日はこの辺で。
といったけど1つだけ。このドラマの挿入歌のコンピアルバムが2枚同時発売らしいが、挿入歌の1つ、フカキョンの「スイミング」が入っていないじゃない?名曲なのにぃぃぃ。原作でもわざわざ歌詞に言及されてるのにぃぃ。やっぱ、買いそうな層がロック派が多いからかなー・・・。
まずキャスティングがありえないほどはまっている。
暗い、もてない、オタク趣味だが、実は女の子によっては「こういうタイプのルックス結構趣味!」などと思われたりもする主人公藤本幸世
・・・森山未來。
地味目に見えたりもするが、実は超可愛くて、服装しだいでゴージャスになったりエロくなったりする20代後半の彼女第一候補土井亜紀
・・・野波麻帆。
女度低め、恋愛苦手の、処女コンプレックスのオタク友達、カメラマン助手の20代前半の彼女第二候補中柴いつか
・・・満島ひかり。
モデル級の完璧ルックス超ゴージャス美女にして、主人公を振り回す魔性の女小宮山夏樹
・・・松本莉緒。
地方の地元のバツイチ元ヤン女で、主人公にカツを入れ続けてくれる姉御女林田尚子
・・・菊池凛子。
イケメンではないが男らしく気さくで頼れる性格ゆえに、女にもモテモテのリア充男の親友(たまに主人公を裏切る)島田雄一
・・・新井弘文。
どうだろう。これらの説明に当てはまる俳優として、実際のキャスト以外の候補が思い浮かぶだろうか?
単に役にぴったりというだけではない。さらにすごいと思うのは、
・モテない男の設定であるにもかかわらず、主人公である以上、実はスター性のある俳優でないといけないという点もクリア。地味女も同じ。
・ゴージャス女と超ゴージャス女の微妙なゴージャス感の違いがちゃんと出てる。
・深夜ドラマに菊池凛子。しかも、重要な役かも知れないが、完全脇役で。
・言うまでもないことだが、全員演技がうまい!!みんな、映画中心に頑張っている俳優さんですよね。
・松本莉緒も濃厚キスシーンに体当たり。
こんなキャストが渾身の演技をしているドラマで、面白くないわけがない。
このドラマは「ドラマ24」というテレビ東京のドラマ枠で、ちょうど20作目らしく、タイトルに「ドラマ24 第20弾特別企画」とついています。
たぶん金も少し多目に使ってるんじゃないかな。
タイトルバックはいきなりバレットタイム撮影してるし。
それにしても、このドラマであらためて野波麻帆の美しさを再認識しました。彼女をはじめて知ったのは、深田恭子主演の「そして、ともだち」(2000年)でしたが、あれからもう10年になりますか。彼女ももう30歳なんですね。相変わらず綺麗だわ。
しかもこのドラマでは、妄想癖のある漫画家の空想シーンや、麻帆ちゃんが一人で部屋でくつろいでいるシーンで、とってもナイスな下着姿も観ることができます。かなりエロいっす。深夜ドラマでよかった。ありがとう監督・脚本さん!!
まあそういう点を置くとしても、このドラマはストーリー展開もすごく面白いし(原作は相当売れてる漫画です)、いろいろ小ネタも利いているし(リリーフランキーが演じてるエロ中年の猥談に「リリーフランキーかよ」みたいな台詞があったり)、感情に訴えかける名シーンも多いし(満島ひかり演じるいつかちゃん(DEATH NOTEの夜神月の妹役だった娘も濃厚キスシーンを演じられる大人になりました)の「ロックンロールは鳴り止まないっ」熱唱シーンは、ドラマ史に残る!)、芸達者の俳優陣は熱演してるし(リリーだけキャラ設定が漫画と変わっちゃってんだけど、この人もうまいねー、すごい説得力)、映像的にもよくできてるし(手持ちカメラも効果的に使用)、今のところ視聴率は普通みたいなんだけど、そのうち伝説のドラマになるんじゃないの?
DVDはディレクターズカットで全く違うものになると思いますので、放送バージョンはゼッタイ観ておく方がいいと思いますよ。君も歴史の証人になれ!!
このドラマについてはほかにもいっぱい言いたいことあるけど、今日はこの辺で。
といったけど1つだけ。このドラマの挿入歌のコンピアルバムが2枚同時発売らしいが、挿入歌の1つ、フカキョンの「スイミング」が入っていないじゃない?名曲なのにぃぃぃ。原作でもわざわざ歌詞に言及されてるのにぃぃ。やっぱ、買いそうな層がロック派が多いからかなー・・・。
2010年8月26日木曜日
思想・良心の自由を今,考える,論文について今,考える
ジュリスト3月1日号に、「日本国憲法研究第7回・思想・良心の自由 [基調報告]『思想・良心の自由を今,考える』」という早稲田大学西原博史教授の論文が載っている。
憲法19条は、実は国家からの思想・良心に対する介入の禁止という捉え方と、国家からの一定思想の(外的表れたる行為の)強制に対し国民がそれが自分の思想・信条と相反すると思うときにはこれを拒むことができる、という捉え方があり、これは信教の自由における政教分離と狭義の信教の自由の関係に似る。(もっとも、狭義の信教の自由と政教分離は、現に共存しているのだが、思想良心の自由の上記2側面は、共存するのだろうか? する、している、という前提なんだろうな。)
信教の自由同様、この二つの捉え方の間には緊張関係がある。すなわち、前者においては、社会的に「思想」として流通しているような一定の(おそらくはある程度体系性な)「信条」のみが問題となる。そうしないと、国家が何らかの主張・教育等する都度「これもひょっとして誰かの思想と抵触するかな?」などと考え出してきりがなくなるからだ。たとえば、Samが「子育てしないパパはかっこ悪い」と言っているポスターを作成しようと国が考えたとしよう。その際、「男は子育てすべきでない」と考える人が万一いたらまずい」ということになると、じゃあそういうポスターはやめようということになる。こう考えていくと、国はポスターなど作れなくなる。同様に、あらゆる国の啓蒙活動が不可能になり、最終的には国家による教育というもの自体不可能となる。
これに対し、後者は個人の側から考えるのだから、一応全ての「ものの考え方、価値観」が問題となる。
これはたとえば、音楽教師が「君が代」伴奏を拒むような場合に健在化する。前者によれば、「ピアノで伴奏する/しない、というくらいで『思想の問題』として論ずるのは言い過ぎではないか」ということになりやすく、後者によると、「とにかく本人が『それは私の良心に反する』と言っているんだから、憲法19条の問題となる」ということになる。
西原教授は、この後者の考え方(思想・良心の自由のアイデンティティー論的構成)を重視する。
それはそれで1つの考え方だとは思うが、日本社会においてはかなりの人々(people)が画一的な世界観・信念に囚われているから、西原教授の考え方は、具体的案件において、一般人の「常識」に反する結論を招きやすく、日本社会で共感を呼ばない(というか、大いに反感を買う)可能性が高いだろう。
それにしても、この論文で考察されている日本の社会状況(特に教育基本法改正の社会的背景)の分析は、私も大いに共感するところである(エらソやね)。
これについてはまたいずれ。
憲法19条は、実は国家からの思想・良心に対する介入の禁止という捉え方と、国家からの一定思想の(外的表れたる行為の)強制に対し国民がそれが自分の思想・信条と相反すると思うときにはこれを拒むことができる、という捉え方があり、これは信教の自由における政教分離と狭義の信教の自由の関係に似る。(もっとも、狭義の信教の自由と政教分離は、現に共存しているのだが、思想良心の自由の上記2側面は、共存するのだろうか? する、している、という前提なんだろうな。)
信教の自由同様、この二つの捉え方の間には緊張関係がある。すなわち、前者においては、社会的に「思想」として流通しているような一定の(おそらくはある程度体系性な)「信条」のみが問題となる。そうしないと、国家が何らかの主張・教育等する都度「これもひょっとして誰かの思想と抵触するかな?」などと考え出してきりがなくなるからだ。たとえば、Samが「子育てしないパパはかっこ悪い」と言っているポスターを作成しようと国が考えたとしよう。その際、「男は子育てすべきでない」と考える人が万一いたらまずい」ということになると、じゃあそういうポスターはやめようということになる。こう考えていくと、国はポスターなど作れなくなる。同様に、あらゆる国の啓蒙活動が不可能になり、最終的には国家による教育というもの自体不可能となる。
これに対し、後者は個人の側から考えるのだから、一応全ての「ものの考え方、価値観」が問題となる。
これはたとえば、音楽教師が「君が代」伴奏を拒むような場合に健在化する。前者によれば、「ピアノで伴奏する/しない、というくらいで『思想の問題』として論ずるのは言い過ぎではないか」ということになりやすく、後者によると、「とにかく本人が『それは私の良心に反する』と言っているんだから、憲法19条の問題となる」ということになる。
西原教授は、この後者の考え方(思想・良心の自由のアイデンティティー論的構成)を重視する。
それはそれで1つの考え方だとは思うが、日本社会においてはかなりの人々(people)が画一的な世界観・信念に囚われているから、西原教授の考え方は、具体的案件において、一般人の「常識」に反する結論を招きやすく、日本社会で共感を呼ばない(というか、大いに反感を買う)可能性が高いだろう。
それにしても、この論文で考察されている日本の社会状況(特に教育基本法改正の社会的背景)の分析は、私も大いに共感するところである(エらソやね)。
これについてはまたいずれ。
2010年8月25日水曜日
円高く、誰が肥える秋?
円高で大変なことになってますなー。俺の勤めてる会社もチョイやばいんでねーの?
政府日銀が無策だとかどうだとかいう議論も喧しい。
でも、それは難しいところだよねー。今の相場が実体経済を反映してるんだったら、それを変える方が問題とも言えるわけだし。ビックマック指数では今の相場でちょうどいいらしいよ。
そもそも、今の相場が実体経済を反映していない、というためには、つまり、効率的市場仮説は、為替相場において「真説」でない、アノマリーはある、と言うためには、実地調査で証明しないといけないわけだ(可能なのかな?)。
いや、証明しなくてもいいのかな。つまり、実体経済を反映してようがしてまいが、問題あれば介入してしまえ、という考え方もあり得るわけだ。特にわが国では、市場経済に対する不信感が強いからね。まあ、それもひとつの考え方でしょう。
ただし、現在中国経済が好調なのは、鄧小平以来の開放経済が、起業家精神を始めとする市場経済的思考の導入結果であるという側面がある(というか、主な理由である)ことを忘れてはならないだろう。私に言わせれば、市場経済批判など、政治家とか大学教授とか、市場経済の恩恵をうけて暮らしていることに気づいていないだけの、お釈迦様の手の平の上の孫悟空のような恩知らずの戯言に過ぎない。
それと、今の円高が問題であるか、というのも、一応論点になるね。実際輸入側は得なわけだし。ダイソーとかユニクロとか、完成品を輸入して国内で販売している企業は、ウハウハではないか。問題は、製造業が廃れると、国内のブルーカラーは職がなくなるってことだな。日産のマーチ現象が、全製造業に波及するだろう。それでもホワイトカラーの一部は、本来生き残れるはず、だけど、失業者への生活保護費支給等、社会保障費に多額の費用が必要になる。今の社会保障水準を切り下げるのは政治的に無理だろうから、結局一部の能力のある働き者に重税をかけて、みんながそれにたかる構図になり、能力ある人たちも馬鹿馬鹿しくて働かなくなるか、語学能力を生かして海外に逃げるか、ということになる。
では円高を是正すべきなのか?
ただ、最後の問題がある。ほんとに一国だけで円高を是正できるのか、ってことだ!!今回米・欧は協調してくれないよ~。
うーん。やっぱ語学は勉強しとこっと!!
政府日銀が無策だとかどうだとかいう議論も喧しい。
でも、それは難しいところだよねー。今の相場が実体経済を反映してるんだったら、それを変える方が問題とも言えるわけだし。ビックマック指数では今の相場でちょうどいいらしいよ。
そもそも、今の相場が実体経済を反映していない、というためには、つまり、効率的市場仮説は、為替相場において「真説」でない、アノマリーはある、と言うためには、実地調査で証明しないといけないわけだ(可能なのかな?)。
いや、証明しなくてもいいのかな。つまり、実体経済を反映してようがしてまいが、問題あれば介入してしまえ、という考え方もあり得るわけだ。特にわが国では、市場経済に対する不信感が強いからね。まあ、それもひとつの考え方でしょう。
ただし、現在中国経済が好調なのは、鄧小平以来の開放経済が、起業家精神を始めとする市場経済的思考の導入結果であるという側面がある(というか、主な理由である)ことを忘れてはならないだろう。私に言わせれば、市場経済批判など、政治家とか大学教授とか、市場経済の恩恵をうけて暮らしていることに気づいていないだけの、お釈迦様の手の平の上の孫悟空のような恩知らずの戯言に過ぎない。
それと、今の円高が問題であるか、というのも、一応論点になるね。実際輸入側は得なわけだし。ダイソーとかユニクロとか、完成品を輸入して国内で販売している企業は、ウハウハではないか。問題は、製造業が廃れると、国内のブルーカラーは職がなくなるってことだな。日産のマーチ現象が、全製造業に波及するだろう。それでもホワイトカラーの一部は、本来生き残れるはず、だけど、失業者への生活保護費支給等、社会保障費に多額の費用が必要になる。今の社会保障水準を切り下げるのは政治的に無理だろうから、結局一部の能力のある働き者に重税をかけて、みんながそれにたかる構図になり、能力ある人たちも馬鹿馬鹿しくて働かなくなるか、語学能力を生かして海外に逃げるか、ということになる。
では円高を是正すべきなのか?
ただ、最後の問題がある。ほんとに一国だけで円高を是正できるのか、ってことだ!!今回米・欧は協調してくれないよ~。
うーん。やっぱ語学は勉強しとこっと!!
飴が下、迷信まかり通る
患者に独自の砂糖玉を飲ませる民間療法、ホメオパシーには全く医学的根拠はないとする談話を、日本学術会議が金沢一郎会長名で出したそうだ。
日本医師会と日本医学会も賛同のを表明したとのこと。
そんなの当たり前、と言うのはたやすい。
しかし、朝のニュース番組を見ていると、「今日の運勢ワースト1位は、・・・ごめんなさーい、○○座のあなた」(by高島彩)なんて言って、ごくまじめに星座占いの結果なんかを公共電波で垂れ流している。
信じる方が馬鹿といえばそれまでですが、そういう情報を発信して、結果的に迷信にお墨付きを与えている人も、やっぱ問題あるよね。
「人は空を飛べないってことぐらい、ちゃんと学校で教えて欲しい。」(浅田彰)
日本医師会と日本医学会も賛同のを表明したとのこと。
そんなの当たり前、と言うのはたやすい。
しかし、朝のニュース番組を見ていると、「今日の運勢ワースト1位は、・・・ごめんなさーい、○○座のあなた」(by高島彩)なんて言って、ごくまじめに星座占いの結果なんかを公共電波で垂れ流している。
信じる方が馬鹿といえばそれまでですが、そういう情報を発信して、結果的に迷信にお墨付きを与えている人も、やっぱ問題あるよね。
「人は空を飛べないってことぐらい、ちゃんと学校で教えて欲しい。」(浅田彰)
2010年8月24日火曜日
Guessen what?
世の中にはどうにも解せないことがある。
民主党の山岡賢次副代表は、菅直人では早晩政権運営が行き詰るとして、小沢一郎前幹事長の党代表選への出馬を要請するという。
民主党の支持率急落の張本人である小沢氏が総理になって、政権運営が安定するとでも言うのだろうか?むしろ地獄への道をまっしぐらでしょ?どうにも解せない。そんなに菅氏が嫌いなのだろうか?
あるいは、山岡氏は小沢一郎氏さえ復権すれば、民主党などどうでもよいのだろうか?そういう人は、きっと国民のことはもっとどうでもいいだろう。
判断力に問題があるのか、それとも志に問題があるのか、どちらにしてもこういう人は国政に携わって欲しくないなあ。
民主党の山岡賢次副代表は、菅直人では早晩政権運営が行き詰るとして、小沢一郎前幹事長の党代表選への出馬を要請するという。
民主党の支持率急落の張本人である小沢氏が総理になって、政権運営が安定するとでも言うのだろうか?むしろ地獄への道をまっしぐらでしょ?どうにも解せない。そんなに菅氏が嫌いなのだろうか?
あるいは、山岡氏は小沢一郎氏さえ復権すれば、民主党などどうでもよいのだろうか?そういう人は、きっと国民のことはもっとどうでもいいだろう。
判断力に問題があるのか、それとも志に問題があるのか、どちらにしてもこういう人は国政に携わって欲しくないなあ。
2010年8月22日日曜日
闘う市長
アメリカニューヨークのグラウンド・ゼロの近くにモスクを建てることを認めるべきかで、アメリカが揺れている。
最初にこのニュースに接した時は、「信教の自由があるからね。建てるなとか無茶言わないでね。」でスパッと終わりとなる話かと思ったが、なんと国民の7割が反対して、未だに論争の火の手は収まっていないようだ。
まともな知識人は反対すべきでないという論調で固まっているようだが、例によって大衆迎合的な一部の政治家、保守系メディア等が、恐ろしいことに堂々と反対論を主張しているらしい。
売り言葉に買い言葉で、賛成派からは「建てようとしているのはイスラム穏健派だから、建ててもいいのでは」という言説も飛び出しているようだ。これだと、穏健派でなければ規制してもいいように聞こえ、問題だろう。9.11テロを起こしたのはほんの一部の人で、全イスラム教徒の数からすれば、無に等しい数字ではないか。
NY市のブルームバーグ市長は、「自由にものを言ったり、好きな場所で自分の信じる神に祈ったりする権利は、憲法上認められている、と、確か7年生か8年生で習った。」と至極真っ当な論理でを展開し、更に「今回の件に即して言えば、モスク建設を計画している団体は、わが市に多様性をもたらすものであり、歓迎している。」と毅然とした態度を見せた。かっこいい。日本の市長で、一人でもこんな立派な方がいらっしゃるでしょうか?
ちなみにこの市長は、あのブルームバーグ端末の、フィナンシャルニュースの、ブルームバーグ社(お世話になっております)の創始者その人なんですね。彼はユダヤ系移民の子ですが、上記言動からすれば、そういう出自だけで人を推し量ることがいかに問題かということもよくわかります。広瀬某の「ユダヤが世界を」どうのこうのなどという本を読んで感心しているようなアホ人間は、よく反省しなさい。(エラそーでごめんなさい。)
最初にこのニュースに接した時は、「信教の自由があるからね。建てるなとか無茶言わないでね。」でスパッと終わりとなる話かと思ったが、なんと国民の7割が反対して、未だに論争の火の手は収まっていないようだ。
まともな知識人は反対すべきでないという論調で固まっているようだが、例によって大衆迎合的な一部の政治家、保守系メディア等が、恐ろしいことに堂々と反対論を主張しているらしい。
売り言葉に買い言葉で、賛成派からは「建てようとしているのはイスラム穏健派だから、建ててもいいのでは」という言説も飛び出しているようだ。これだと、穏健派でなければ規制してもいいように聞こえ、問題だろう。9.11テロを起こしたのはほんの一部の人で、全イスラム教徒の数からすれば、無に等しい数字ではないか。
NY市のブルームバーグ市長は、「自由にものを言ったり、好きな場所で自分の信じる神に祈ったりする権利は、憲法上認められている、と、確か7年生か8年生で習った。」と至極真っ当な論理でを展開し、更に「今回の件に即して言えば、モスク建設を計画している団体は、わが市に多様性をもたらすものであり、歓迎している。」と毅然とした態度を見せた。かっこいい。日本の市長で、一人でもこんな立派な方がいらっしゃるでしょうか?
ちなみにこの市長は、あのブルームバーグ端末の、フィナンシャルニュースの、ブルームバーグ社(お世話になっております)の創始者その人なんですね。彼はユダヤ系移民の子ですが、上記言動からすれば、そういう出自だけで人を推し量ることがいかに問題かということもよくわかります。広瀬某の「ユダヤが世界を」どうのこうのなどという本を読んで感心しているようなアホ人間は、よく反省しなさい。(エラそーでごめんなさい。)
2010年8月21日土曜日
ヤツらを追放せよ!
昨日「踊る大捜査線 the movie 3 ヤツらを解放せよ」、を観た。
出来としては、秀逸だった「容疑者室井慎次」側というよりは、「少林少女」と同類項である。つまり、ひどい。山崎真実のサービスシーンがない分、さらに悪い(無論、小泉今日子のサービスシーンが欲しかった、というわけでは、全くない、全くない。)。
難点をいくつか挙げると、冒頭な長回しの退屈さ(「スネーク・アイズ」などと言わずとも、「有頂天ホテル」などと比べてもひどい)、垂れ流しのキャスト(伊藤淳史など、見せ場が用意できなかった)、意味不明な盛り上げ、不可解なタイミングでのネタバラシ、・・・などなど。小栗旬やギバチャンは例によって好演しているが、こういう駄作で熱演すると、却ってイタイのも世の常である。
今日立ち読みした雑誌では、この映画は大ヒットなのだそうな。私が観た回は大ホールに5人だったので、さすがに口コミで詰まんないって伝わってるんだろうな、口コミは馬鹿に出来ないなーと思ったが、木曜ラストの回だったから、たまたま少なかっただけなのかな。
その雑誌では、監督・製作、と誰か(脚本だったかな)の鼎談が載っていたが、あんな映画作ってよく偉そうに語れるなー。ジョージルーカスが、スター・ウォーズはきっとコケると思って、公開時に(たしか)ハワイに逃避していた、などという謙虚な(小心者の?)話を思い出すよ。
日本人は謙虚だなどという人は、この対比をよく踏まえて国民論を語るべきである、と余計なことまで考えてしまう今日この頃である。
小栗君扮する補佐官の描写(思わせぶりな台詞を吐きつつ、本作では何も起こらず終了)などからすると、このシリーズももう1作くらい作るつもりらしいが、彼(とギバチャン)の名演技を無駄にしないためにも、監督・脚本(と、たぶんプロデューサーも)は、総取っ替えすべきだろう。デスノートの金子修介にでもバトンタッチしてはどうか。(あずみ2もそつなくこなしたし。あ、小栗旬つながりだね。)
結局、小栗君の人気にあやかって、駄作になっても集客を確保しようという製作サイドの思惑/保険付保行為が、今回見事にハマっているわけであるが、人気者の方は、その人気を無駄遣いしないよう、出る作品を選ばないとね。小栗君、「NANA」を振り切った宮崎あおいに学べ!!(「NANA」は駄作じゃないけどね。)
出来としては、秀逸だった「容疑者室井慎次」側というよりは、「少林少女」と同類項である。つまり、ひどい。山崎真実のサービスシーンがない分、さらに悪い(無論、小泉今日子のサービスシーンが欲しかった、というわけでは、全くない、全くない。)。
難点をいくつか挙げると、冒頭な長回しの退屈さ(「スネーク・アイズ」などと言わずとも、「有頂天ホテル」などと比べてもひどい)、垂れ流しのキャスト(伊藤淳史など、見せ場が用意できなかった)、意味不明な盛り上げ、不可解なタイミングでのネタバラシ、・・・などなど。小栗旬やギバチャンは例によって好演しているが、こういう駄作で熱演すると、却ってイタイのも世の常である。
今日立ち読みした雑誌では、この映画は大ヒットなのだそうな。私が観た回は大ホールに5人だったので、さすがに口コミで詰まんないって伝わってるんだろうな、口コミは馬鹿に出来ないなーと思ったが、木曜ラストの回だったから、たまたま少なかっただけなのかな。
その雑誌では、監督・製作、と誰か(脚本だったかな)の鼎談が載っていたが、あんな映画作ってよく偉そうに語れるなー。ジョージルーカスが、スター・ウォーズはきっとコケると思って、公開時に(たしか)ハワイに逃避していた、などという謙虚な(小心者の?)話を思い出すよ。
日本人は謙虚だなどという人は、この対比をよく踏まえて国民論を語るべきである、と余計なことまで考えてしまう今日この頃である。
小栗君扮する補佐官の描写(思わせぶりな台詞を吐きつつ、本作では何も起こらず終了)などからすると、このシリーズももう1作くらい作るつもりらしいが、彼(とギバチャン)の名演技を無駄にしないためにも、監督・脚本(と、たぶんプロデューサーも)は、総取っ替えすべきだろう。デスノートの金子修介にでもバトンタッチしてはどうか。(あずみ2もそつなくこなしたし。あ、小栗旬つながりだね。)
結局、小栗君の人気にあやかって、駄作になっても集客を確保しようという製作サイドの思惑/保険付保行為が、今回見事にハマっているわけであるが、人気者の方は、その人気を無駄遣いしないよう、出る作品を選ばないとね。小栗君、「NANA」を振り切った宮崎あおいに学べ!!(「NANA」は駄作じゃないけどね。)
2010年8月20日金曜日
懺悔録
ああ、やばい、やばいよ。
これだけははまっちゃいかんと思ってたのに。
馬鹿だなー俺。いい歳して。(ちなみにまだ
48というわけではない。)
買ってしまった「篠田麻里子写真集 麻里子」・・・
最近深夜番組でやたら見かける、そしてゴールデンタイムもやたら見かけるようになってきたAKB48。そこに所属している、茶髪のショートヘアーがよく似合う女の子、篠田麻里子チャンの写真集を、本屋で見かけてしまいました。
今更さら次郎、アイドル写真集。AKBはやべーだろ。ガキ集団ではないか。
でもこのコは可愛いなーと前から思っていたんですよね。性格もよさげだし。しかも最初はAKBのグッズかなんかの売店の売り子さんだったとかいうところ(深夜番組でそんな話をしてました)も、なんかソソルわ~。
表紙の写真も素晴らしい。結局、一も二もなく買ってしまったのでした。お店のお姉さんの視線が、心なし痛いワ~。
家で中を見ると、やっぱいいわー。可愛いわー。
細身なのね。この細腰たまらんわ~。表情も豊かだね。表情どころか、顔自体、テレビで見る顔とちょっと違って見える写真も多く、そっちもまた魅力的だナ~。
一応この子は24歳で、現AKB48メンバーでは最年長なんだね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E7%94%B0%E9%BA%BB%E9%87%8C%E5%AD%90
少しホッとした。ミドルティーンとかだと、好きになった時点で、世間的に僕、ちょっとオワッちゃうからねー。
売り子さんだった話もウィキに書いてあるね。
身長168cmか。高からず、低からず、ちょうどいいねー。ソソルわー。たまらんわー。
AKB48劇場って、アキバのドンキの上にあるんでしょ。近いわー。近くて、、、そして遠いわー。さすがにキツイわ、この歳でAKBライブは・・・。でも生で麻里子チャン見てみたいわ~。ウーン、ウーン・・・。
馬鹿だなー、男って。
んっ?もう第三写真集なんだね。あと2つあるんだ・・・。やべーこと知ってしまったなー。
ああ、AKBの人気投票でも3位なんだ。テレビで見てると、もっとマニアックな、一部のコアなファンにのみ人気がある感じのキャラのように見えましたが(メインの番組進行の合間に挟まるショートコ-ナーで変な服着て街を歩いたりとかしてました)、割と正統派の立ち位置なんですね。まあ、これだけ可愛きゃ当たり前か。
仕事でつかれた精神を明るい笑顔やコケティッシュな憂いの表情で癒してくれる篠田麻里子チャン、本当にありがとう。これからも頑張って下さい!!
応援するよー!!
これだけははまっちゃいかんと思ってたのに。
馬鹿だなー俺。いい歳して。(ちなみにまだ
48というわけではない。)
買ってしまった「篠田麻里子写真集 麻里子」・・・
最近深夜番組でやたら見かける、そしてゴールデンタイムもやたら見かけるようになってきたAKB48。そこに所属している、茶髪のショートヘアーがよく似合う女の子、篠田麻里子チャンの写真集を、本屋で見かけてしまいました。
今更さら次郎、アイドル写真集。AKBはやべーだろ。ガキ集団ではないか。
でもこのコは可愛いなーと前から思っていたんですよね。性格もよさげだし。しかも最初はAKBのグッズかなんかの売店の売り子さんだったとかいうところ(深夜番組でそんな話をしてました)も、なんかソソルわ~。
表紙の写真も素晴らしい。結局、一も二もなく買ってしまったのでした。お店のお姉さんの視線が、心なし痛いワ~。
家で中を見ると、やっぱいいわー。可愛いわー。
細身なのね。この細腰たまらんわ~。表情も豊かだね。表情どころか、顔自体、テレビで見る顔とちょっと違って見える写真も多く、そっちもまた魅力的だナ~。
一応この子は24歳で、現AKB48メンバーでは最年長なんだね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E7%94%B0%E9%BA%BB%E9%87%8C%E5%AD%90
少しホッとした。ミドルティーンとかだと、好きになった時点で、世間的に僕、ちょっとオワッちゃうからねー。
売り子さんだった話もウィキに書いてあるね。
身長168cmか。高からず、低からず、ちょうどいいねー。ソソルわー。たまらんわー。
AKB48劇場って、アキバのドンキの上にあるんでしょ。近いわー。近くて、、、そして遠いわー。さすがにキツイわ、この歳でAKBライブは・・・。でも生で麻里子チャン見てみたいわ~。ウーン、ウーン・・・。
馬鹿だなー、男って。
んっ?もう第三写真集なんだね。あと2つあるんだ・・・。やべーこと知ってしまったなー。
ああ、AKBの人気投票でも3位なんだ。テレビで見てると、もっとマニアックな、一部のコアなファンにのみ人気がある感じのキャラのように見えましたが(メインの番組進行の合間に挟まるショートコ-ナーで変な服着て街を歩いたりとかしてました)、割と正統派の立ち位置なんですね。まあ、これだけ可愛きゃ当たり前か。
仕事でつかれた精神を明るい笑顔やコケティッシュな憂いの表情で癒してくれる篠田麻里子チャン、本当にありがとう。これからも頑張って下さい!!
応援するよー!!
2010年8月5日木曜日
やたらメッタら破天荒 残念!! 斬り!!
破天荒とは、前人未到と同じような意味である。つまり、今まで誰もできなかったことをする、という意味である。
今日、新聞、雑誌、単行本等で使われている「破天荒」は、ほとんどが「型破りな」「ハチャメチャな」という意味で使われており、それは全て誤用である。(次のサイトを参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E5%A4%A9%E8%8D%92
一番多いのは、小説の紹介文である。個性的な登場人物が出てくると、すぐ「破天荒な主人公/脇役が・・・」とくる。
破天荒の意味を一度知ると、「メッタ斬り」シリーズの豊崎由美の文章・対談など、いかにも教養のない人のそれに思える。
まあこの人の場合、誤用である点を差し引いても、そもそも主人公のキャラ説明に「破天荒」を使いすぎである。他人の小説をメッタ斬りする資格があるのだろうか・・・。
今日、新聞、雑誌、単行本等で使われている「破天荒」は、ほとんどが「型破りな」「ハチャメチャな」という意味で使われており、それは全て誤用である。(次のサイトを参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E5%A4%A9%E8%8D%92
一番多いのは、小説の紹介文である。個性的な登場人物が出てくると、すぐ「破天荒な主人公/脇役が・・・」とくる。
破天荒の意味を一度知ると、「メッタ斬り」シリーズの豊崎由美の文章・対談など、いかにも教養のない人のそれに思える。
まあこの人の場合、誤用である点を差し引いても、そもそも主人公のキャラ説明に「破天荒」を使いすぎである。他人の小説をメッタ斬りする資格があるのだろうか・・・。
2010年8月3日火曜日
主体性の共同体
今BSでプラネットベービーズという番組をやってて、なんとなく観てました。
デンマーク南部ロラン島の「園舎を持たず・・・森の中で子どもたちが自由に遊ぶ『森の幼稚園』・・・」の紹介。(番組HP[末尾url参照]より)、ナビゲーターは田中律子、コメンテーターは齊藤先生という幼児教育学専門の相模女子大准教授。
と聞けば、世の時流に逆らうイヤミな諸兄(私を含む)は、「自然の中でのびのびと」とか、「自然の恵みに感謝することを学んで」とか、そういうイラッとくる決まり文句満載の馬鹿馬鹿しい番組を想像するところでしょうが、そしてまあそういう面もあったのですが、でもとっても面白い番組でした。
特に興味深かったのは、こんな場面。
幼稚園の子供たちが二人で遊んでいて、一人が頭を殴られて泣き出すのですが、子供がもう一人来て、「あっちへ行こう。」と泣いている子を連れて行く。殴った方も自分が悪いと思っているらしく、なんとなく二人の後をついて行く。殴られた子はだんだん気持ちが落ち着いてきて、泣くのをやめ、殴った子に「もうお前なんか嫌いだ」とかいいつつ木の枝を投げたりしているうちに、なんとなく仲直りする、のですが、その間大人が(諍いには気づいているのに)誰も仲裁しない、そして、(日本と一番違う点は、とコメンテーターも指摘していましたが、)子供がだれも「先生、○○ちゃん泣いちゃったよ」とか「○○ちゃんと××ちゃんがケンカしてるよ」などと、言いつけ(?)に行かない。子供が自分で解決するのです。
わたしは最近、会社における各従業員の主体的行動(意欲の欠如)につき思いを致す機会が多いのですが、デンマーク人(上述のような教育を受けた人々がデンマーク人の一部なのか全体なのかは知らないが、ここではこう言っておこう)は、きっと権威に頼ったり、上の指示を待ったりしていないで、ガンガン自分で仕事を企画して進めて行けるんじゃないかな。
「できる人」っていうのは、子供のころ刷り込まれた日本人気質を意識して排除し、自らの人格をデンマーク人化した人たちのようだ。
番組HP本日(じゃなくて7/29の再放送なのかな?)分は、以下の通り。
http://www.nhk.or.jp/baby/archives/archive100729.html
デンマーク南部ロラン島の「園舎を持たず・・・森の中で子どもたちが自由に遊ぶ『森の幼稚園』・・・」の紹介。(番組HP[末尾url参照]より)、ナビゲーターは田中律子、コメンテーターは齊藤先生という幼児教育学専門の相模女子大准教授。
と聞けば、世の時流に逆らうイヤミな諸兄(私を含む)は、「自然の中でのびのびと」とか、「自然の恵みに感謝することを学んで」とか、そういうイラッとくる決まり文句満載の馬鹿馬鹿しい番組を想像するところでしょうが、そしてまあそういう面もあったのですが、でもとっても面白い番組でした。
特に興味深かったのは、こんな場面。
幼稚園の子供たちが二人で遊んでいて、一人が頭を殴られて泣き出すのですが、子供がもう一人来て、「あっちへ行こう。」と泣いている子を連れて行く。殴った方も自分が悪いと思っているらしく、なんとなく二人の後をついて行く。殴られた子はだんだん気持ちが落ち着いてきて、泣くのをやめ、殴った子に「もうお前なんか嫌いだ」とかいいつつ木の枝を投げたりしているうちに、なんとなく仲直りする、のですが、その間大人が(諍いには気づいているのに)誰も仲裁しない、そして、(日本と一番違う点は、とコメンテーターも指摘していましたが、)子供がだれも「先生、○○ちゃん泣いちゃったよ」とか「○○ちゃんと××ちゃんがケンカしてるよ」などと、言いつけ(?)に行かない。子供が自分で解決するのです。
わたしは最近、会社における各従業員の主体的行動(意欲の欠如)につき思いを致す機会が多いのですが、デンマーク人(上述のような教育を受けた人々がデンマーク人の一部なのか全体なのかは知らないが、ここではこう言っておこう)は、きっと権威に頼ったり、上の指示を待ったりしていないで、ガンガン自分で仕事を企画して進めて行けるんじゃないかな。
「できる人」っていうのは、子供のころ刷り込まれた日本人気質を意識して排除し、自らの人格をデンマーク人化した人たちのようだ。
番組HP本日(じゃなくて7/29の再放送なのかな?)分は、以下の通り。
http://www.nhk.or.jp/baby/archives/archive100729.html
2010年7月31日土曜日
Somebody's omniscient.
世の中には頭のとってもよい人がいる。
そういう人とたまにお仕事をご一緒させてもらったりすると、彼我のあまりの能力(脳力)の差に愕然とする。自尊心がヒリヒリ痛むよ。
それでも、われわれは前に進むしかないのだ!
あー勉強しよっと。
そういう人とたまにお仕事をご一緒させてもらったりすると、彼我のあまりの能力(脳力)の差に愕然とする。自尊心がヒリヒリ痛むよ。
それでも、われわれは前に進むしかないのだ!
あー勉強しよっと。
えっ?圭佑じゃなくて拓也の方?
スペインの優勝で幕を閉じたワールドカップ。ホスト国、南アフリカ共和国のエースはピナールだった。
んっ?南アフリカラグビーワールドカップの開催国主将もピナールだったじゃん!!
多いのかな、ピナール姓?
「えっ?英寿じゃなくて浩二の方?」っていうペナルティーヒデのギャグを思い出した。
拓也もがんばれ!(拓也=北京オリンピックサッカー日本代表の本田拓也。清水所属)
北京世代で1番好きなのは家長だけど(次が柏木)。
んっ?南アフリカラグビーワールドカップの開催国主将もピナールだったじゃん!!
多いのかな、ピナール姓?
「えっ?英寿じゃなくて浩二の方?」っていうペナルティーヒデのギャグを思い出した。
拓也もがんばれ!(拓也=北京オリンピックサッカー日本代表の本田拓也。清水所属)
北京世代で1番好きなのは家長だけど(次が柏木)。
2010年7月25日日曜日
windows7 CDを入れた際に自動的に立ち上がるソフトの変更
コントロールパネル→ハードウェアとサウンド→自動再生→オーディオCD プルダウンで好きなソフトを選ぶ
誰でも知ってることのせいか、ネットでググっても出てこないので、いちお。
誰でも知ってることのせいか、ネットでググっても出てこないので、いちお。
2010年6月4日金曜日
ニルヴァーナの世界
前回のおまけ
芽衣子さんの彼=種田、がカートを崇拝するのはよくわかる。
あの手の破滅型ロック・スターで、本当にTOPに上り詰めていた人は、彼を最後に生まれてきていないのだ。
つまり、彼こそ最後のロックスターなのである。
というより、こういう人は、彼の前は誰だったのか、というぐらい少ない。
Toys in the AttickやRocksの頃のエアロスミスくらいまで遡らないといけないのではないか?
ドアーズのジムモリソンとか?ブライアン・ジョーンズとか?
NIRVANAのロックがそれほど革新的だったのかというと、疑問もないわけではない。
誰が言ったか忘れたが、Smells Like Teens Spirit なんて、クリームのWhite Roomのパクリじゃないか、とも言える。まあパクリは言い過ぎとしても、曲のフォーマットとしては似ている。
クリームの音楽は当時(60年代)の音楽界の中で革新的だった。クリームは、ビートルズやレッド・ツェッペリンなどと同様、ロックそのものを変えたバンドの一つなのだ。ニルヴァーナにそこまでの革新性があるか?そうとは言い難い。
前回も書いたが、Nevermindは、音質の魅力がかなりセールスに貢献した。また、時代はヘヴィネスを求めていた。メタリカのいわゆるブラックアルバム(「METALLICA」。ゴリゴリにヘヴィ。)が全米1位になったのは、ニルヴァーナのブレイク前のことである。(というか、ブラックアルバムの宣伝のためのインタヴューでメタリカのメンバーがニルヴァーナを褒めまくったのが、Nevermindブレイクのきっかけだった。かくいう私がNevermindを買ったのも、メタリカ推奨銘柄だったからなのでした。)
それに、ニルヴァーナの曲は、所詮ポップである。
インユーテロが出る前、私はカートがインタヴューで大層な、芸術家っぽいことをのたまっているのを読んだ。その時私の心に浮かんだのは、「ポップソング作って何をアートぶってんだ?」という疑問だった。そして、恐らくカート自身、それを誰よりも痛切に感じていた。それがポップさを後退させたアルバム「インユーテロ」の作成意図であり、しかし「インユーテロ」は必ずしも世間に受け入れられなかった(このアルバムは、質の悪いスピーカーほどカッコよく聞こえるという、不思議なサウンドプロダクションになっている。いいスピーカーで聞くと、普通のへヴィーロックの音になり、サウンドガーデンとかと同じになるが、質の悪いスピーカーで聞くと、最初のドラムスティックを打ち合わせる太い木の音のカッコよさに、鳥肌が立つ。)。しかもシングル用に、依然ポップな曲、Heartshaped BoxとかAll Apologyとかが、中途半端に入っているのも、痛い。
カートの声も、普通にカッコいい。ブライアンアダムス系である。彼の声がミート・パペッツみたいだったら?ミート・パペッツくらいしか売れなかったかもしれない!
でも、繰り返しになるが、他にいないんだよね。こういう、アートな若者が憧れ、感情移入できる人が。カートは薬をやって痩せてから、恐ろしくカッコよかったし。
まあ、カートが生きて活躍したのは90年代であって、60年代ではない。これが90年代(そして今?)のアーティストの精一杯の誠実な生き様だったのかもしれない。昔ジョージマイケルが、60年代に生まれたかった、と言っていた。アイドルとしてデビューしたジョージマイケルには、80~90年代の、そんな醜悪さが身に染みていたのかもしれない。
個人的には、ジョージマイケルこそアートな若者に憧れられる資格を十分に備えた偉大なアーティストだと思います。蛇足。
蛇足ついでにもうひとつ。アコギを弾いてるカートの写真をプリントしたTシャツを売ってる某ジーンズショップ(Right Onのこと)は許さない。ニルヴァーナと言ったら轟音ヘヴィロックだろ!エレキギターじゃないと駄目だよ。アーティストに対する愛のないやつが関連グッズを売らないで欲しい!
芽衣子さんの彼=種田、がカートを崇拝するのはよくわかる。
あの手の破滅型ロック・スターで、本当にTOPに上り詰めていた人は、彼を最後に生まれてきていないのだ。
つまり、彼こそ最後のロックスターなのである。
というより、こういう人は、彼の前は誰だったのか、というぐらい少ない。
Toys in the AttickやRocksの頃のエアロスミスくらいまで遡らないといけないのではないか?
ドアーズのジムモリソンとか?ブライアン・ジョーンズとか?
NIRVANAのロックがそれほど革新的だったのかというと、疑問もないわけではない。
誰が言ったか忘れたが、Smells Like Teens Spirit なんて、クリームのWhite Roomのパクリじゃないか、とも言える。まあパクリは言い過ぎとしても、曲のフォーマットとしては似ている。
クリームの音楽は当時(60年代)の音楽界の中で革新的だった。クリームは、ビートルズやレッド・ツェッペリンなどと同様、ロックそのものを変えたバンドの一つなのだ。ニルヴァーナにそこまでの革新性があるか?そうとは言い難い。
前回も書いたが、Nevermindは、音質の魅力がかなりセールスに貢献した。また、時代はヘヴィネスを求めていた。メタリカのいわゆるブラックアルバム(「METALLICA」。ゴリゴリにヘヴィ。)が全米1位になったのは、ニルヴァーナのブレイク前のことである。(というか、ブラックアルバムの宣伝のためのインタヴューでメタリカのメンバーがニルヴァーナを褒めまくったのが、Nevermindブレイクのきっかけだった。かくいう私がNevermindを買ったのも、メタリカ推奨銘柄だったからなのでした。)
それに、ニルヴァーナの曲は、所詮ポップである。
インユーテロが出る前、私はカートがインタヴューで大層な、芸術家っぽいことをのたまっているのを読んだ。その時私の心に浮かんだのは、「ポップソング作って何をアートぶってんだ?」という疑問だった。そして、恐らくカート自身、それを誰よりも痛切に感じていた。それがポップさを後退させたアルバム「インユーテロ」の作成意図であり、しかし「インユーテロ」は必ずしも世間に受け入れられなかった(このアルバムは、質の悪いスピーカーほどカッコよく聞こえるという、不思議なサウンドプロダクションになっている。いいスピーカーで聞くと、普通のへヴィーロックの音になり、サウンドガーデンとかと同じになるが、質の悪いスピーカーで聞くと、最初のドラムスティックを打ち合わせる太い木の音のカッコよさに、鳥肌が立つ。)。しかもシングル用に、依然ポップな曲、Heartshaped BoxとかAll Apologyとかが、中途半端に入っているのも、痛い。
カートの声も、普通にカッコいい。ブライアンアダムス系である。彼の声がミート・パペッツみたいだったら?ミート・パペッツくらいしか売れなかったかもしれない!
でも、繰り返しになるが、他にいないんだよね。こういう、アートな若者が憧れ、感情移入できる人が。カートは薬をやって痩せてから、恐ろしくカッコよかったし。
まあ、カートが生きて活躍したのは90年代であって、60年代ではない。これが90年代(そして今?)のアーティストの精一杯の誠実な生き様だったのかもしれない。昔ジョージマイケルが、60年代に生まれたかった、と言っていた。アイドルとしてデビューしたジョージマイケルには、80~90年代の、そんな醜悪さが身に染みていたのかもしれない。
個人的には、ジョージマイケルこそアートな若者に憧れられる資格を十分に備えた偉大なアーティストだと思います。蛇足。
蛇足ついでにもうひとつ。アコギを弾いてるカートの写真をプリントしたTシャツを売ってる某ジーンズショップ(Right Onのこと)は許さない。ニルヴァーナと言ったら轟音ヘヴィロックだろ!エレキギターじゃないと駄目だよ。アーティストに対する愛のないやつが関連グッズを売らないで欲しい!
2010年6月3日木曜日
I hate ソラニン and want them to die.
カートコバーンは、ヘヴィーロックバンド「ニルヴァーナ」のヴォーカリスト兼ギタリストとして、ロック史上に残る名作アルバムを1枚、年間トップ3に挙げ得る傑作アルバムを1枚、そしてまあまあかっこいいアルバムを1枚残して、そして死んだ。彼1人で作ることができたわけではない。アルバム「Nevermind」のサウンドプロダクションも当時最高レベルのカッコよさだった。そして何よりドラム!ドラマー、デイヴ・グロールの貢献度が大きい事は、アルバムを聞けばすぐわかるはずだ。
さて、それとは全く関係のない話なのだが、ある時期からカートコバーンは、グランジロックの王様としてポップアイコンに祭り上げられるようになった。それとともに、彼はスキャンダルジャーナリズムの餌食となり、パパラッチに追い回されるようになった。
先に述べた三枚のアルバムが彼のアーティストとしての経歴であり、そのパートナーがデイヴだったとすれば、ポップスターとしての彼の一面を代表するのは、これらのスキャンダルであり、パートナーは彼の妻であった。夫同様ロックバンドの一員であった彼女は、その個性と奇矯な行動で、(もっとも軽薄な意味で)時代の寵児の私生活を飾り立て、バカなジャーナリストどもは競ってそんなどうでもよい話を記事にした。(彼らに呪いあれ!)
そんなカートの悲しくも馬鹿馬鹿しい最後のスキャンダルが、言うまでもなく彼の自殺である。天才ミュージシャンの夭逝は、当時はもちろん、今もなお軽薄な、くだらない言説の対象としてしゃぶり尽くされ、消費されている。彼の妻は、そんな状況の中で、「Live Through This」などというあからさまなタイトルのアルバムまで出して、夫の死を自分の人生の、そして仕事の糧として、精神的のみならず、経済的にも生き延びようとした。あなオソロシや。
とにかく、私が言いたいのはこういうことだ。カートは妻とセットで、そのスキャンダルについて語るべき人ではない。デイヴとセットで、そのアルバムについて語るべき存在なのだ。以上より、椎名林檎のあの歌は最悪である。「私がFoo Fightersじゃない?ダーリン」となぜ言えないのか。〔Foo Fighters=カートの死後デイヴがやってる目茶目茶かっこいいバンド。ジャンルとしてはメロコア、と昔は呼んでいた。)
さて、そこで映画「ソラニン」の話だ。
「ソラニン」は、マンガ原作の、宮崎あおい主演の青春ドラマ映画である。あおいちゃんの演技にハズレなし。いつもながら感動的な演技を見せている。しかも今回はロックバンドのギタリスト・ボーカリスト役として、カッコよくギターまで弾いている。脇を固める役者たちも着実な演技を見せ、特に最近人気実力とも急上昇中の桐谷健太君は、ここでも力強い演技を見せている(ドラマー役も様になっている。もともと叩けるらしい)。まあ要するに、なかなか立派な映画と言ってもいいのかもしれない。
では、何が問題なのか。
【注意!! 以下映画のストーリーのネタばれがあります。】
宮崎あおい演じる芽衣子さんには、フリーターとして働きながらロックバンドをやっている同棲相手がいて、前半は二人の切ない自分探しを追ってストーリーが展開していく。
それはまあよい。ところが後半、彼が夢破れてなかば自殺気味に事故死してしまう。彼の生前、自分の生きがいを見出せず悩んでいた芽衣子さんは、彼のバンド仲間とバンド活動をすることで、彼の死を乗り越え、自己実現を果たして自らの人生を歩き出す・・・。
もうお分かりだろう。これは、まさにカートとその妻の話なのだ。(これだけ読むと、考えすぎなんじゃないの、という人がいるかもしれないが、回想シーンで彼が「好きなアーティストと同じギターを買ってバンドを始めた」と語るそのギターが、カートの愛したフェンダーの水色のギターで(これはパンフにも書いてある)、それを語る時に彼が着ているTシャツには、ご丁寧に「NIRVANA」という文字と、カート・デイヴともう一人(どうでもいいが一応名をクリスという)の絵が書いてあるのだから、この読みはまあまず間違いないであろう。)
しかも、そもそも芽衣子さんは、彼が死ぬ前は、やりたいことが何もない、生きがいのない女の子だった。何の変哲もない自分の人生を輝かせるため、「バンド頑張れ」と彼を追い詰めて、彼から「自分の人生を全部俺におっ被せようとすんな」みたいなことまで言われるのである。それが彼の遺志を継いで(?)、バンド活動を行うことで、歌により、人生の生きがいのごときものをみつけるのである。先程彼の死を乗り越えてと書いたが、彼の生前から芽衣子さんの人生がぱっとしなかったことを考えると、それは正確ではない。彼女の人生は、まさに彼の死によって初めて輝くのである。
しかし、誰かが死んで、そのおかげで他のだれかの人生が生気を帯びるっていうのは、やはりルール違反ではないだろうか。芽衣子さんの彼=種田は、というか誰であろうと、芽衣子さんの人生を輝かせるために生きて、悩んで、死ぬ訳じゃない。人の死を、自分の生の輝きのための肥やしとするという、この映画のストーリーは、ほとんど人倫にもとっている。おまえは吉本ばななか(「スライ」で同様の非道なストーリーを展開)。「世界はお前中心に回っているわけじゃないぞ。」
というわけで、同じことを男女逆でやったのが、「世界の中心で愛を叫ぶ」(小説版)である。「世界の中心で」とはよく言ったものだ。主人公の男の子の愛する彼女が10代で死ぬ話を読んで「私もこんな恋愛がしてみたい」とのたまった柴崎コウさん、きっとソラニンもお気に召すことでしょう。(なお、TVドラマ版セカチューは、そんな小説のしょうもなさに対する反省の上に立って作られた名作である。「セカチュー」にも、いろいろあるのだ。)
そういうわけで、ソラニンは、最悪の題材(コバーン夫妻のラスト・スキャンダル)を、しかも最悪の展開(一方の死により、パートナーの人生が輝き出す)で見せる恐ろしい映画なのだ。製作者に呪いあれ!
以上より、この映画の(反面教師としての)教訓は以下の通りとなる。
・カート・コバーンは、その妻とでなく、デイヴ・グロールとともに語られなければならない。ソラニンの製作者だの椎名林檎だのはもっと勉強しなさい。
・ あらゆる人間は自己目的的に存在するべきであり、他の何者の目的となることも許されない(カント)。他人の死で輝く人生など、唾棄すべきである。
・あおいちゃん、仕事は選んで欲しい。
・でも好き。
さて、それとは全く関係のない話なのだが、ある時期からカートコバーンは、グランジロックの王様としてポップアイコンに祭り上げられるようになった。それとともに、彼はスキャンダルジャーナリズムの餌食となり、パパラッチに追い回されるようになった。
先に述べた三枚のアルバムが彼のアーティストとしての経歴であり、そのパートナーがデイヴだったとすれば、ポップスターとしての彼の一面を代表するのは、これらのスキャンダルであり、パートナーは彼の妻であった。夫同様ロックバンドの一員であった彼女は、その個性と奇矯な行動で、(もっとも軽薄な意味で)時代の寵児の私生活を飾り立て、バカなジャーナリストどもは競ってそんなどうでもよい話を記事にした。(彼らに呪いあれ!)
そんなカートの悲しくも馬鹿馬鹿しい最後のスキャンダルが、言うまでもなく彼の自殺である。天才ミュージシャンの夭逝は、当時はもちろん、今もなお軽薄な、くだらない言説の対象としてしゃぶり尽くされ、消費されている。彼の妻は、そんな状況の中で、「Live Through This」などというあからさまなタイトルのアルバムまで出して、夫の死を自分の人生の、そして仕事の糧として、精神的のみならず、経済的にも生き延びようとした。あなオソロシや。
とにかく、私が言いたいのはこういうことだ。カートは妻とセットで、そのスキャンダルについて語るべき人ではない。デイヴとセットで、そのアルバムについて語るべき存在なのだ。以上より、椎名林檎のあの歌は最悪である。「私がFoo Fightersじゃない?ダーリン」となぜ言えないのか。〔Foo Fighters=カートの死後デイヴがやってる目茶目茶かっこいいバンド。ジャンルとしてはメロコア、と昔は呼んでいた。)
さて、そこで映画「ソラニン」の話だ。
「ソラニン」は、マンガ原作の、宮崎あおい主演の青春ドラマ映画である。あおいちゃんの演技にハズレなし。いつもながら感動的な演技を見せている。しかも今回はロックバンドのギタリスト・ボーカリスト役として、カッコよくギターまで弾いている。脇を固める役者たちも着実な演技を見せ、特に最近人気実力とも急上昇中の桐谷健太君は、ここでも力強い演技を見せている(ドラマー役も様になっている。もともと叩けるらしい)。まあ要するに、なかなか立派な映画と言ってもいいのかもしれない。
では、何が問題なのか。
【注意!! 以下映画のストーリーのネタばれがあります。】
宮崎あおい演じる芽衣子さんには、フリーターとして働きながらロックバンドをやっている同棲相手がいて、前半は二人の切ない自分探しを追ってストーリーが展開していく。
それはまあよい。ところが後半、彼が夢破れてなかば自殺気味に事故死してしまう。彼の生前、自分の生きがいを見出せず悩んでいた芽衣子さんは、彼のバンド仲間とバンド活動をすることで、彼の死を乗り越え、自己実現を果たして自らの人生を歩き出す・・・。
もうお分かりだろう。これは、まさにカートとその妻の話なのだ。(これだけ読むと、考えすぎなんじゃないの、という人がいるかもしれないが、回想シーンで彼が「好きなアーティストと同じギターを買ってバンドを始めた」と語るそのギターが、カートの愛したフェンダーの水色のギターで(これはパンフにも書いてある)、それを語る時に彼が着ているTシャツには、ご丁寧に「NIRVANA」という文字と、カート・デイヴともう一人(どうでもいいが一応名をクリスという)の絵が書いてあるのだから、この読みはまあまず間違いないであろう。)
しかも、そもそも芽衣子さんは、彼が死ぬ前は、やりたいことが何もない、生きがいのない女の子だった。何の変哲もない自分の人生を輝かせるため、「バンド頑張れ」と彼を追い詰めて、彼から「自分の人生を全部俺におっ被せようとすんな」みたいなことまで言われるのである。それが彼の遺志を継いで(?)、バンド活動を行うことで、歌により、人生の生きがいのごときものをみつけるのである。先程彼の死を乗り越えてと書いたが、彼の生前から芽衣子さんの人生がぱっとしなかったことを考えると、それは正確ではない。彼女の人生は、まさに彼の死によって初めて輝くのである。
しかし、誰かが死んで、そのおかげで他のだれかの人生が生気を帯びるっていうのは、やはりルール違反ではないだろうか。芽衣子さんの彼=種田は、というか誰であろうと、芽衣子さんの人生を輝かせるために生きて、悩んで、死ぬ訳じゃない。人の死を、自分の生の輝きのための肥やしとするという、この映画のストーリーは、ほとんど人倫にもとっている。おまえは吉本ばななか(「スライ」で同様の非道なストーリーを展開)。「世界はお前中心に回っているわけじゃないぞ。」
というわけで、同じことを男女逆でやったのが、「世界の中心で愛を叫ぶ」(小説版)である。「世界の中心で」とはよく言ったものだ。主人公の男の子の愛する彼女が10代で死ぬ話を読んで「私もこんな恋愛がしてみたい」とのたまった柴崎コウさん、きっとソラニンもお気に召すことでしょう。(なお、TVドラマ版セカチューは、そんな小説のしょうもなさに対する反省の上に立って作られた名作である。「セカチュー」にも、いろいろあるのだ。)
そういうわけで、ソラニンは、最悪の題材(コバーン夫妻のラスト・スキャンダル)を、しかも最悪の展開(一方の死により、パートナーの人生が輝き出す)で見せる恐ろしい映画なのだ。製作者に呪いあれ!
以上より、この映画の(反面教師としての)教訓は以下の通りとなる。
・カート・コバーンは、その妻とでなく、デイヴ・グロールとともに語られなければならない。ソラニンの製作者だの椎名林檎だのはもっと勉強しなさい。
・ あらゆる人間は自己目的的に存在するべきであり、他の何者の目的となることも許されない(カント)。他人の死で輝く人生など、唾棄すべきである。
・あおいちゃん、仕事は選んで欲しい。
・でも好き。
2010年3月2日火曜日
相対性理論
キム・ヨナの金メダルは、まず間違いなかったなどということは、「私だけはわかっていた」などといばれるようなものではない。フィギュアスケートを見ている人ならみんなわかっていたはずだ。
「キム・ヨナ最大のライバル浅田真央、または「(空恐ろしいことに)「浅田真央の最大のライバルのキム・ヨナ」という言われ方がしていたが、これはちょっと無理がある、というのが、ここ1年半くらいのフィギュアを見ていた人の率直な感想だと思う。マスコミって、ホントひどいよね。これで浅田の肩に余計な力が入ったことは間違いない(実際、2位になって悔し涙にくれていたので、ちょっとびっくりした。)
ともかく、浅田真央は、2位を目指すべきだと、多くのフィギュアファンは思っていたはずである。そして、一回でもキム・ヨナがジャンプですっこけたら(できればSPの最初のジャンプが望ましい)、運よく金が取れるかもしれないというのが、真央ちゃんの目指す正しい戦略だったはず。実際荒川静香はそんな感じで金を取りましたよね。その意味でトリプルアクセル3回は、止めたがよいんじゃないか、と多くの人が内心思っていたはずだ。
しかし、彼女は1位を目指して2位を取った。これは、敗れて残念、というよりは、むしろ素晴らしいことだったんじゃないでしょうか、皆さん。
私がキム・ヨナのSPを見た時点で思ったのは、彼女は今大会少し調子が悪いんじゃないか、ということだった。しかし、これは間違いだった(実際SP世界最高得点を獲得)。なぜそう見えたのか。前に滑った浅田真央が素晴らしかったから、相対的にキム・ヨナの輝きが薄れて見えたのだ!!一昨年のシーズン中ごろから、キム・ヨナの滑りは、ちょっと物凄いものになっていたが、それは各大会出場選手中で彼女に匹敵する選手がいなかったために、さらに輝いて見えていたのである。
浅田真央の滑りは、少なくともキム・ヨナの輝きを薄れさせるくらいには凄かったのだ(いや、もっと凄かったですが、慎重に言ってもそうだという意味です)。このことを忘れてはいけないと思う。真央ちゃん銀メダルおめでとう。
ただし、重ねて言うが戦略的には2位狙いで行くべきだった。トリプルアクセルでこけたら、5~6位、いやそれより下かも知れない。今やフィギュアはそういう競技なのである。
その意味で、安藤美姫はいさぎよく3位狙いに行っていたと思う。これは正しかった。結果はついてこなかったが、この振る舞い方はこれでやはり立派だったと思う。そもそも、私にとってミキティの滑りはメダル云々とは関係ないです。いつもセクシーで、そして力強さもある、本当に素晴らしい「演技」ですよね!それに世界女王になった記録が消えるわけではない。この路線に安藤選手を導いたモロゾフもホントに偉い!! クレオパトラは、昨年のグランプリシリーズの演技(あと衣装もね)も素晴らしかったですし、新シーズンに演目が変わってしまうのも惜しいくらいです。
とにかく、安藤ミキティの演技は、今後も我々を感動させてくれるでしょう。ありがとうミキティ!!
付け足し 前回トリノ後の、ミキティに対するマスコミの仕打ち、これはひどかったですよね。恥というものを知らないのだろうか。
トリノ後、というが、実際には、ミキティバッシングはトリノ前から始まっていた。すなわち浅田真央の年齢問題である。年齢制限に引っかかる浅田の出場を、IOCは認めるべきだ、との大合唱が起きていたが、そうなると弾かれるのは三人目=ミキティだった(後は大エースの荒川静香と安定感のあるベテラン村主だった)。どうせ認められるわけもないのに、よくこういう心無い報道ができるな、と思ったもんです。安藤本人も平常心ではいられなかったでしょう。それが四回転サルコーへのこだわりになってしまった可能性は捨て切れません。
そういう意味では、浅田の誕生日は、本人だけでなくミキティの人生も狂わせた感があります。しかし、この悲運に負けず(本人はそもそも悲運などとと思っていないでしょうが)、今後も素晴らしい演技を見せて欲しいものです。頑張れミキティ!!
「キム・ヨナ最大のライバル浅田真央、または「(空恐ろしいことに)「浅田真央の最大のライバルのキム・ヨナ」という言われ方がしていたが、これはちょっと無理がある、というのが、ここ1年半くらいのフィギュアを見ていた人の率直な感想だと思う。マスコミって、ホントひどいよね。これで浅田の肩に余計な力が入ったことは間違いない(実際、2位になって悔し涙にくれていたので、ちょっとびっくりした。)
ともかく、浅田真央は、2位を目指すべきだと、多くのフィギュアファンは思っていたはずである。そして、一回でもキム・ヨナがジャンプですっこけたら(できればSPの最初のジャンプが望ましい)、運よく金が取れるかもしれないというのが、真央ちゃんの目指す正しい戦略だったはず。実際荒川静香はそんな感じで金を取りましたよね。その意味でトリプルアクセル3回は、止めたがよいんじゃないか、と多くの人が内心思っていたはずだ。
しかし、彼女は1位を目指して2位を取った。これは、敗れて残念、というよりは、むしろ素晴らしいことだったんじゃないでしょうか、皆さん。
私がキム・ヨナのSPを見た時点で思ったのは、彼女は今大会少し調子が悪いんじゃないか、ということだった。しかし、これは間違いだった(実際SP世界最高得点を獲得)。なぜそう見えたのか。前に滑った浅田真央が素晴らしかったから、相対的にキム・ヨナの輝きが薄れて見えたのだ!!一昨年のシーズン中ごろから、キム・ヨナの滑りは、ちょっと物凄いものになっていたが、それは各大会出場選手中で彼女に匹敵する選手がいなかったために、さらに輝いて見えていたのである。
浅田真央の滑りは、少なくともキム・ヨナの輝きを薄れさせるくらいには凄かったのだ(いや、もっと凄かったですが、慎重に言ってもそうだという意味です)。このことを忘れてはいけないと思う。真央ちゃん銀メダルおめでとう。
ただし、重ねて言うが戦略的には2位狙いで行くべきだった。トリプルアクセルでこけたら、5~6位、いやそれより下かも知れない。今やフィギュアはそういう競技なのである。
その意味で、安藤美姫はいさぎよく3位狙いに行っていたと思う。これは正しかった。結果はついてこなかったが、この振る舞い方はこれでやはり立派だったと思う。そもそも、私にとってミキティの滑りはメダル云々とは関係ないです。いつもセクシーで、そして力強さもある、本当に素晴らしい「演技」ですよね!それに世界女王になった記録が消えるわけではない。この路線に安藤選手を導いたモロゾフもホントに偉い!! クレオパトラは、昨年のグランプリシリーズの演技(あと衣装もね)も素晴らしかったですし、新シーズンに演目が変わってしまうのも惜しいくらいです。
とにかく、安藤ミキティの演技は、今後も我々を感動させてくれるでしょう。ありがとうミキティ!!
付け足し 前回トリノ後の、ミキティに対するマスコミの仕打ち、これはひどかったですよね。恥というものを知らないのだろうか。
トリノ後、というが、実際には、ミキティバッシングはトリノ前から始まっていた。すなわち浅田真央の年齢問題である。年齢制限に引っかかる浅田の出場を、IOCは認めるべきだ、との大合唱が起きていたが、そうなると弾かれるのは三人目=ミキティだった(後は大エースの荒川静香と安定感のあるベテラン村主だった)。どうせ認められるわけもないのに、よくこういう心無い報道ができるな、と思ったもんです。安藤本人も平常心ではいられなかったでしょう。それが四回転サルコーへのこだわりになってしまった可能性は捨て切れません。
そういう意味では、浅田の誕生日は、本人だけでなくミキティの人生も狂わせた感があります。しかし、この悲運に負けず(本人はそもそも悲運などとと思っていないでしょうが)、今後も素晴らしい演技を見せて欲しいものです。頑張れミキティ!!
ゲスゲスした世の中で
バンクーバーオリンピックも終わったようだ。
例によって、日本のメダルが少なかった、問題は・・・、原因は・・・と騒いでる人がいるようです。
毎回言ってよく飽きないものだ。
国母選手の試合出場がアナウンスされた時、「メダルが取れる選手だからか」などと批判がましいことを言っていた人がいたが、まさか、今になってメダル数が少ないと嘆いている人と同一人ではないだろうな。
どのスポーツでも、半端な努力で国内トップクラスになれるわけではない。オリンピックに出られるような人は、皆超人的な努力をしている人たちなのだ。それを、世界で三位までに入れなかったからといって批判するのは、はっきり言って下衆である。温かく迎えて、何が悪いというのか。
というわけで、下衆な人
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
産経HPより
「辛酸なめ子さんの話 『期待されながら結果を残せなかった選手に対して批判が起こらず、優しさに満ちあふれた五輪だった。入賞でもメダルを取ったかのようなムード。不況などで暗い話題が多く、日本中がささやかな喜びで満足してしまったのかもしれない。金メダルへの執念が感じられたのは、フィギュアスケート女子の浅田真央選手くらい。レース後に「出場できてよかった」と笑顔で話す選手が目立ち、物足りなかった。』」
何様? いったい何が不満なの? アスリートたちに何を求めてるんですか?
それに、入賞したらメダルを取ったかのようなムードだなんて、ウソつくな。安藤ミキティや国母選手と、高橋大輔や浅田真央選手でムードが同じだったですか?滅茶苦茶言うなよ。てめー。
「ささやかな喜びで満足している」んなら、貴様と同じメダルが少ない少ないの大合唱組の存在は何なんだよ。
「今大会は、カーリング日本代表のチーム青森やスノーボードの国母和宏選手のように、外見やキャラクターが目立つ選手にばかり注目が集まった。競技が面白くても、選手に実力があっても、地味だと話題に上らず損をするという構図は、違和感が残った」
カーリングは競技がおもしろくて注目が集まったんでは?
ホント、こういう自分の欲求不満を頑張ってる人にぶつけて滅茶苦茶なこと言い放つ下衆コメンテーターは絶滅して欲しい。
例によって、日本のメダルが少なかった、問題は・・・、原因は・・・と騒いでる人がいるようです。
毎回言ってよく飽きないものだ。
国母選手の試合出場がアナウンスされた時、「メダルが取れる選手だからか」などと批判がましいことを言っていた人がいたが、まさか、今になってメダル数が少ないと嘆いている人と同一人ではないだろうな。
どのスポーツでも、半端な努力で国内トップクラスになれるわけではない。オリンピックに出られるような人は、皆超人的な努力をしている人たちなのだ。それを、世界で三位までに入れなかったからといって批判するのは、はっきり言って下衆である。温かく迎えて、何が悪いというのか。
というわけで、下衆な人
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
産経HPより
「辛酸なめ子さんの話 『期待されながら結果を残せなかった選手に対して批判が起こらず、優しさに満ちあふれた五輪だった。入賞でもメダルを取ったかのようなムード。不況などで暗い話題が多く、日本中がささやかな喜びで満足してしまったのかもしれない。金メダルへの執念が感じられたのは、フィギュアスケート女子の浅田真央選手くらい。レース後に「出場できてよかった」と笑顔で話す選手が目立ち、物足りなかった。』」
何様? いったい何が不満なの? アスリートたちに何を求めてるんですか?
それに、入賞したらメダルを取ったかのようなムードだなんて、ウソつくな。安藤ミキティや国母選手と、高橋大輔や浅田真央選手でムードが同じだったですか?滅茶苦茶言うなよ。てめー。
「ささやかな喜びで満足している」んなら、貴様と同じメダルが少ない少ないの大合唱組の存在は何なんだよ。
「今大会は、カーリング日本代表のチーム青森やスノーボードの国母和宏選手のように、外見やキャラクターが目立つ選手にばかり注目が集まった。競技が面白くても、選手に実力があっても、地味だと話題に上らず損をするという構図は、違和感が残った」
カーリングは競技がおもしろくて注目が集まったんでは?
ホント、こういう自分の欲求不満を頑張ってる人にぶつけて滅茶苦茶なこと言い放つ下衆コメンテーターは絶滅して欲しい。
「スポーツライター」は坑に埋めよ
自称(?)スポーツライターの玉木正之氏の国母選手の分析(感想?願望?)
「一応入賞はしたが、何とも思わなかった。それは彼が才能だけに頼ってやっているからだ。筋力トレーニングなど基礎をやっていないのではないか。スポーツは必ず人間を磨くが、それが感じられない。スポーツをきちんとしている人間とは思えなかった」産経ニュースHPより。
国母選手が筋トレをやっていないはずはない、と思うので(世界はそんなに甘くないだろう)、まずめちゃくちゃな意見であることは間違いない。が、え?「スポーツは必ず人間を磨く」って? この人イっちゃってるよ。
批判するなら、根拠を示せって?
マラドーナ。
Q.E.D.
頑固親父 あるいは老害 part1
何気に買った文芸春秋に、舞城王太郎の小説が載っていた。芥川賞候補作だそうだ。しかし今回は残念ながら受賞できず(池澤夏樹が強力プッシュしたようだが、例によって人間力が足りなかった模様)。と言うか、今回は受賞作なしだったそうだ。
芥川賞といえば、悪名高き石原慎太郎の選考委員ぶりであるが、昨日その石原都知事が、津波警報発令にかかわらず東京マラソンを開催した点について記者の質問を受けていた。
記者「津波の警報で、中止を検討されたりとかいうことは・・・?」
知事「地震がいつ起こるかわからないのに中止する馬鹿いないじゃない。下らん質問するな、君。ほんとに。」(立ち去る)
記者 (その背中に)「津波の警報が・・・(F.O.)」
知事 (聞かずに立ち去る。)
完全に質問を取り違えている。地震はいつ来るかわからないが、津波はこの時既に洋上に発生して、太平洋をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしているのだ。(それを知らないヨットマン慎太郎ではないだろう。)
私が思ったのは、こんな簡単な質問の意味も取り違えるくせに、舞城王太郎の小説はちゃんと読めるんだろうか、ということだ。
無理くさいな~。
この項続く。
2010年2月21日日曜日
CAT
ベルリン映画祭で寺島しのぶが主演女優賞をとったそうです。でも、この映画、「キャタピラー」は、「太平洋戦争で手足を失った軍人の夫と、介護に追われる妻の物語で、戦争の愚かさを描く。」って日経のHPに書いてあるんだけど、戦争で手足を失った、って、ひょっとして、江戸川乱歩の「芋虫」となにか関係あるんだろうか。だいたい、caterpillarって、芋虫じゃん。あの小説が「戦争の愚かさを描」いたものでないことだけは確かだけど。
私の頭の中のインビクタス
イーストウッド監督作品インビクタスを観た。いい映画ですね。流れるような話運び。こういう名作を、毎回あっという間に撮るというのだから、イーストウッドはやはり天才。
実在の英雄ということで、マット・デイモン演じるフランソワ・ピナールの造形がイマイチ薄い(キャラの陰影の、「陰」を描きづらいので)のが玉に瑕か。ま、小さな傷ですが。
それより気になったのが、劇中登場するオールブラックス(ラグビーニュージーランド代表)の試合前のウォークライ、ハカの踊りです。これが盛り上がるのは、ドラマ構成上はまずいんですよね。主役はスプリングボックス(同南アフリカ代表)なんだから。しかし、その勇ましさにやはり盛り上がってしまい、映画館の客席もしばしざわつく。
ところがどっこい、さすがイーストウッド、というのは気が早い。
オールブラックスの試合をテレビで観たことある人は知ってると思うけど、本物はそんなもんじゃない。魂が震えるとはこのことか、という、ものすごい迫力なのだ。(実際に見たらもっとすごいんだろうなあ。)
私が初めてハカを見たときは、最初に相手(サモアだったかな)がウォークライを敢行。(今思うに)オールブラックスのお株を奪うような勇壮な踊りに、観客は大喜び。ところがそのあと、本家オールブラックスがハカを披露。あからさまに格の違うそのド迫力に、観客の興奮は頂点に!相手選手は試合前から下を向いてしまうし、何なんだこれは、という感じでした。
そんなわけで、イーストウッド版ハカはある意味中途半端な感じに仕上がってしまいました。まあもしかしたら、観客がそれだけ記憶して帰ってもらっても困る、ということで押さえ気味に撮ったのかも知れませんが。
私が観た映画館の席の隣は若いカップルで、残念ながら最初から最後までしゃべり通し(予告編上映の際に挟まれる「上映中のマナーを守りましょう」の間もしゃべってるからね)、最後は自分たちが席をポップコーンまみれにしたのに大笑いして、それを拾う真似すらせず去っていきました。
映画に描かれたアパルトヘイトに怒りを覚え、ネルソンマンデラの神々しいまでの不屈の魂、それに応えて新しい国づくりのために尽くしたスプリングボックスの選手たちに感動しつつ(←何しろずっとしゃべってるもんで、彼らの感情は逐一伝わってくるわけです)、己のマナーは全く省みることもない、人間なんてそんなものか。まさに「インビクタス」(征服されざるもの)といったところ。おあとがよろしいようで。
2010年2月20日土曜日
彼はよく頑張った
国母選手8位入賞。一回目に大技ダブルコークで転倒したとは言え、恐れることなく二度目も同じ技を繰り出し、残念ながら手がついてしまって35点台ではあったが(ちょっと減点しすぎにも思えるけど)、8位は立派だと思います。予選で大技封印のまま42点台を出していたので、決勝一回目は無難に行く手もあったと思いますが、まあダブルコークは練習では10回中10回成功している、と試合前に言っていたので、その意味では本番ならではの精神状態の問題があったのかも。・・・そう考えるとあの大騒ぎさえなければ、という気がしないでもありませんが、本人が潔く「関係ない」と言ってるので、まあそれ以上言うのは野暮というものでしょう。
とにかく、国母選手はよく頑張った。世界の8位ですから、決して価値は低くない。ここは素直に褒め称えようではありませんか!!
優勝は前回同様ショーン・ホワイト。前回トリノでも、決勝1回目で優勝を決める得点を出し、二回目は(みんなが期待する中)とくに大技を繰り出しませんでしたが、今回は更なる大技ダブルマックツイストを出してくれたようです(前回批判でも受けたのでしょうか?確かにあれはがっかりでした)。何度観ても何が起こっているのかようわからん。
漁夫の利狙いの不届き者
googleが検閲を拒否して中国政府と対立している。中国の市場としての価値を認めつつも、人権問題も等閑視できないのが欧米先進国の人々だ。
こういうgoogleの戦いで、皆が共同歩調をとれば、中国政府もその意向を尊重し、自国の人権問題に配慮せざるを得なくなる。逆に、ここがチャンスとばかりに中国政府に擦り寄ってgoogleの後釜を狙おうとする卑怯な輩がいれば、中国政府はgoogleの提起した問題など無視できる。その結果googleはドン・キホーテとなる。
あなたはそういう「卑怯な輩」候補に、誰を思い浮かべますか?
第一に考えられるのは、人権に、基本的に価値を認めない人々である。(無論ここでいう「人権」とは「他人の人権」である。自分の人権にだけ敏感な人は除かれる。)
さらに、その者の主要顧客も人権に価値をおかない人々であろう。アメリカなどでは、人権に配慮しない(ことがばれた)企業には、即座に批判、さらに不買運動が巻き起こるのだが、そういうハンディを負わずに、中国で人権侵害を気にせず商売ができると非常に有利である。
ところで、本日こういうニュースに接した。「人権状況視察のためミャンマーを約1年ぶりに訪問した国連人権理事会のキンタナ特別報告者は19日、現地で記者団に『年内に歴史的な総選挙を実施するにもかかわらず、軍事政権が政治犯の釈放を前向きに考えている様子がなかった』と述べ、軍事政権の対応を強く批判した。」(日経HPより)
そんなミャンマーで1988年に軍事クーデターが起き軍事政権が成立した際、これをいち早く承認したのは誰か。
我が日本である。その後も日本は、人権問題・民主勢力弾圧を批判して経済制裁を続けるアメリカ・EUなどを尻目に、経済協力による援助を実施し続けてきた。(ただし、現在、人道的な理由がなく、かつ緊急性がないような援助は停止されている、という。)
公式見解では、単にバッシングするのではなく、孤立して意固地になるのを防ぎ、国際社会の中に留めおく中で、徐々に人権重視を説得するべきだ(いわば「北風と太陽」の太陽戦略といったころであろう。韓国の金大中政権でも北朝鮮に対する宥和外交を「太陽政策」と言ってました)、からとされている。
それが本気なのか、それとも単なる金儲けの言い訳なのかはともかく、しかし、この戦略には、大きな失敗例がある。
1989年の天安門事件後、中国は欧米の経済制裁を受け、経済成長率も大幅に落ち込んだ。その中国との関係をいち早く正常化したのは、やはり日本であった。天皇訪中まで実施して、中国の国際社会復帰に手を貸した。そしてそのようなわが国の行動の理論的根拠は、やはりミャンマーの時と同じ、太陽戦略だったと記憶している。
そして、あれからはや20年。国際経済の巨人となった(史実から言えば「巨人に復帰した」だが。原田泰『日本はなぜ貧しい人が多いのか』参照。)中国は、89年と全く変わらず、人権など鼻にも引っ掛けない国のままだ。そうして自国に参入する企業に対し、検閲への協力を求める。
もう言いたいことはお分かりであろう。googleの戦いを無駄なものにする第一候補は、日本企業・日本政府・日本人である。
以前中国で、突然日本バッシングが起こって、日本資本の店や大使館などが襲われたことがあった。あの時の中国治安機関の無作為ぶりはいただけなかったが、私はそれとは別に一つ気になった点があった。それは、暴動が大きくなって政府・治安機関が暴動の沈静化を図る方向に方針転換して後、同国内のネット上で、日本批判を繰り広げるサイトや掲示板の意見が、当局により次々消されていっていったのだが、それを伝えるわが国報道において、これを言論の自由封殺の問題として捉える意見がほとんど見られなかったことである。(ここで「ほとんど」というのは、慎重を期して言っているだけであって、私の知る限りではゼロであった。)むしろ、事態沈静化に向かっていて、良かった良かった、という意見しかなかった。自国の安全の前には、他人の人権のことなど、頭にも上らない、それが日本人である。自国の、自社の利益のためには?恐らく同じであろう。
昔宮沢喜一氏が総理大臣だったころ、ビル・クリントン大統領(当時)と会談した際に、「日米両国は価値観を共通にしている」というような発言をして、一部から「本当にそうか?」と疑義を呈されていた。こと人権感覚について言えば、相当な差がありそうだ。
ただ、中島義道氏によれば、現代の若い世代の人々は、人権感覚に富んでいるという。いつの日か日本も、真に欧米と価値観を共有する日が来るのだろうか。
おまけ:人権なんて下らない、という意見がある。それはそれで立派な意見ですが、そういう人は、憲法とその解釈本をよく読んで、そこに書かれた一切の人権を、まず自分が行使しないということからはじめて下さいね。自分で権利行使しといて、他人には行使させないなんて、首尾一貫しませんからね。
表現の自由・職業選択の自由・移動の自由・プライバシー権・教育を受ける権利(あ、もう行使しちゃったかな?)・・・。生存権なんてのもありますね。
2010年2月17日水曜日
彼は悪くない!!!
もうバンクーバーオリンピックが始まっているが、国母選手の服装問題、ネットとスポーツ新聞をえらく賑わせてますね。
あの服装のどこがいけないんだ?あんなの街中にいっぱい歩いてるじゃないか。公式の場だから、という人がいるようだが、空港とか、単なる移動中でしょう。(街を歩いてるのも移動中だ。)天皇の前で同じ格好できるのかとか書いてる変な人もいたけど、実際天皇の前じゃないし。移動中のEXILEがサングラス掛けてたとしても、天皇の前でも取らないのか、とは言わないでしょう。ルール違反という人もいたが、ルールと言っても、日本選手団公式服装着用規定が「自覚と誇りを持って公式服装を着用しなければならない」というだけだ。自覚=腰履き禁止、と読ませるのは、腰履きしたことのない世代にしか通用しない。
会見の態度が悪かった、という人もいるが、悪くもないのに無理やり謝らされた人の身にもなってみ。あのくらい不貞腐れて当然だろう。
代表としての自覚が足りないとかいう人もいるが、彼は国のために出場するわけではないことをはっきり述べている。自分の価値観を人に押し付けるな。
同じ日本人として恥ずかしいとかいう人は、まず己が恥ずかしくない人間か、よく胸に手を当てて考えてみろ。(自分は恥ずかしくない人間だ、という人は、自国のオリンピック選手がどんな格好していようが、自分は恥ずかしくなどないはずだ。自分に自信がないから、変わりに他人に立派になってもらって、それで自分のプライドを満足させようとするのだ。)大体彼はスノボーがうまいからオリンピックに出てるんだよ。服を着崩さないから、国の威信を高めるのがうまいから出てるわけじゃない。出る資格がないとか言うやつは、彼以上の成績収めてから言え。
それから、国の金で行ってるんだから、国のためにやっているつもりはないでは済まされない、という者もいるが、彼に税金が使われていることは、彼に対する一方的な恩恵ではない。日本の選手が好成績を収めたら、それでプライドを(なぜか)満足させて幸せになったりするあほな国民がいて、それが国家にとって都合がいい(不満から目をそらせるため、とかね)から金を出しているのだ(まあ他にも、子供に夢を与えるとか、いろいろあるのかも知れないけど)。要は完全にgive&takeであり、感謝しろという筋合いのものではない。
それを、マナー違反だの、強制帰国させろだのと、何を息巻いてるんだ?「スポーツウエアを乱れなく着ていたが、トレードマークのドレッドヘアとひげはそのまま」(「謝罪」会見を伝える産経の記事)などと、ドレッドヘアと髭までやめろといわんばかりの報道(?)まであった。アホか。逆に、「主義主張に基づいての服装なら、謝ったりせずそれを貫け」、などという人もいた。そんなことしたら、集団ヒステリーの火に油を注ぐようなもんでしょう。それこそ阿呆な目立ちたがり屋に刺されたりしかねない。
だいたい、国母選手はスノーボーダーだ。アーティストなのだ。しかも典型的なXスポーツだし。オルタナティブなんだよ。スラッシュメタルガンガンかけて、大技決めて観客がヒューヒューいうスポーツなんだよ。ショーン・ホワイトの記者会見のカッコ見ろよ。体育会系の論理であーだこーだ言うのはおかしいでしょ。一昔前のマラソンランナーみたいな修行僧もどきになれとでも言うのかよ。もっと言えば、あのくらいで大騒ぎしてたら、スノボーウェア自体まずいだろう。だいたい、日本選手用公式ウェアって、あの変なジャケットとパンツの組み合わせはなんだ。女子は紫とか赤とかのスカーフなんかもついてて決まってるが、成人男子は、上が淡色で下が濃色の組み合わせはきつい。子供っぽくなる。(高校生ならかわいいが。)一体あれはどこ製なんだ。サッカー日本代表を引き合いに出す人もいたが、確かにサッカー日本代表で移動の際にスーツを着崩しているやつはいないものの、彼らが支給されてるスーツは、(大会によって変わるが)ダンヒルとかヒューゴ・ボスとか(あとゼニアだったかな)だかんね。カッコいいのさ。はるやま(北京の時の公式ウェア支給元)とかと一緒にすんなよ。
スノボーは次第に衰退しつつあるウィンタースポーツの中で、唯一と言ってもいいほどの人気を保っている。それが気に入らないらしく、スピードスケート(「ミズスマシのようで面白くない」あれです)あたりから、すなわち銀を取った長島や、オリンピックの時だけ人気が出る岡崎から、ここぞとばかりに非難の声が上がっている。みっともない。岡崎など「あっち(スノーボード)の世界はどうか分からないけれど、代表チームのトップの人たちが身だしなみについて指導した方が良い。」などと、露骨に「あっち」の人呼ばわりしている(我々正統派とは異なる、と言いたいのだろう)。
なお、川端文部科学大臣が、「極めて遺憾だ。国を代表して参加する自覚が著しく欠けていた」「反省している態度ではなかった」と言ったそうで、これが一番腹が立つ。鳩山・小沢に言え!!彼らにぴったりの言葉ではないか!ちなみにお前のところの党首と幹事長だ!!
まあつい熱くなってしまいましたが、国母選手は、直前の大会でアメリカの選手に混じって(ここが重要。前回トリノでは、日本HP陣は前評判はよかったものの、未知の存在だったアメリカ選手に、蓋を明けて見れば格の違いを見せ付けられてしまった。しかし今回はそうではないのだ)好成績を挙げており、本来活躍が期待できる選手だった。今回こうやって寄ってたかってバッシングして、精神統一ができないようにしてしまったから、いい成績を残すのは大変困難になってしまった。それこそ投下資本が無駄になる可能性が高まってしまったのだ。なんというアホ。
とは言え、彼も一流のアスリート/アーティストである。並みの精神力ではないはずだ。ぜひこの件を気にせず頑張って、活躍して欲しい。スノボーは、技が決まると本当にカッコいいからね。国母選手はものすごい大技をもっているらしいし。
国母選手、頑張れ!!
ちなみに、彼はドレッド・髭スタイルで、今はちょっとお気楽アンちゃん風に見えるが、実は髭を剃って髪をストレートに戻すと、石川遼風イケメンだ。敢えてのドレッドスタイルであることも知っておこう。
2010年2月15日月曜日
50歳の恋愛白書 reminded me of the phrase ”the last~"
先日「50歳の恋愛白書」を観た。言いたいことはいろいろあるが、3つだけ。
・いい映画です。脚本・演技・演出とも良いが、衣装やプロダクションも含むヴィジュアルも素晴らしいですね。特に衣装は、どれもこれも美しい(ジュリアン・ムーア除く)。
・テイストとしては、ポール・トーマス・アンダーソン監督の映画っぽいような感じでしょうか。
・もちろん配給会社はいろいろ考えて付けたんでしょうが、この邦題は、どうよ。この題名で「おっ」て思って見に行く人って、いるのかな?あくまで個人的感想ですが、The Japanese title of this movie is the last one that encourages me to see it. (合ってるかな?)
ちなみに原題は、「The Private Lives of Pippa Lee」。ピッパ・リーの私生活、というか、裏事情、かな。Pippa Leeは主人公の名前です。「ピッパ・リーの裏事情」、これでは客は入らないのだろうか?「ピッパ・リーの裏・事・情」とか「ピッパ・リーのウ・ラ・事情」とかならどうだ!俺はこっちの方が観たいぞ。・・・まいいか。それにしても、なぜLivesと複数形になっているんだろう。裏の顔がいくつもあるからかな?
ともかく、シネコンで観客3人は自己新記録タイ。1人というのは、意外にないんですね。
でもほんとにいい映画なんですよ。登場人物の心情に共感できないところもあったけれど、それも含めていい映画だと思います。終わる前に観て欲しい。
(続く)
2010年2月11日木曜日
民主党政権と私
民主党政権は、斎藤次郎元大蔵事務次官を郵政のトップに据えた時点で、私の中では終わった。嘘つきは嫌い。
以上
追加
ちなみに、安倍政権は、郵政民営化反対組を自民党に復党させた時点で、私の中では終わった。嘘つきは嫌い。
少林少女と山崎真実
映画「少林少女」は駄作であると言われている。それは否定できない。ラストがカタルシスを得られない、というのは、まあ好みの問題でしょうが、全体的にストーリー展開に筋が通っていない。脚本家の脚本自体の問題なのか、監督またはプロデューサーの問題なのかはわからないが、とにかく「なんで?」「なんで?」「なんでやねん?」の世界。熱演している俳優陣がかわいそう。
監督・プロデューサーは「踊る大捜査線」をヒットさせたコンビで、その映画版がクオリティーの割りに大ヒットしたのもよくなかった。どこかにモヤモヤを抱えていた映画ファンが、文句なしにレベルの低い「少林少女」に、ここぞとばかり罵詈雑言を浴びせたのだ。特に「踊る大捜査線 THE MOVIE 2」は、映画としての質に問題があったというだけでなく、なんというか、映画を馬鹿にした感じがあった。冒頭のいかにも映画的なカット割を直後にずっこけさせる編集、弱者(女性・失業者)に対する容赦のないバッシング(井筒監督はテレビで「リストラされた人を勇気付けるのが映画じゃないのか!」と激怒していた)、強者・組織への温かい視線(例えばこの映画では、いわゆる「官製談合」が、微笑ましく描かれている!)。そして日本映画歴代興行収入1位(実写)・・・。
いや、「少林少女」の話であった。
しかし、映画というものは、ストーリー展開だけではない。漫画だってストーリーだけじゃないでしょう?
そこで山崎真実である。これはwikipediaはじめいろいろなところで書かれている話であるが、この映画の一番の魅力は、柴崎コウが最初にラクロス部に行くシーンだ。グラビアアイドルの山崎真実ちゃんがラクロス部の主将役で出ているのだが、体にピッタリしたaddidasの変な緑色(映画館で観た時はブルーに見えたんだけど、記憶違いかな・・・)のポロシャツ風トレーニングウェアを着た彼女、その胸のポッチが、もろに!
わざとじゃないと思うんですよね。ブラもしてるし。撮影の時寒かったのかな?ストラップレスブラ(に見えます)は危険なのか?(あれはなんか縦方向の緊張感に欠ける気がする・・・)
この映画はブルーレイでも出ているが、主要ターゲットは真実ちゃんのファンかも知れない。私の持っているのはDVDですが、DVDのキャスト紹介には、主要キャストではないということらしく、山崎真実ちゃんは出ていない。わかってないなー。この映画は映画秘宝の最低映画にも選ばれているが、これまたわかっていないなー。映画は総合芸術です。何かいいところがあればいいのだ!
「何に対してであれ反対する書物は、いかなるものも重要ではない。何か新しいものに「賛成」する書物だけが大切である。」(ドゥルーズ)
「新しい」かどうかはわからないですが。
山崎真実ちゃんはすごく可愛いし、よく雑誌の表紙も飾っていますが、なぜかもう一つブレイクしないですね。グラビアアイドルがステップアップするには、テレビのバラエティー番組で受けるトークができることが必要なようです。昔ナインティーナインの番組に出てましたが、まじめな感じでしたからね。「少林少女」でも、背の小さい柴崎コウが平靴で立っている隣に写ると、スラっとしてすごくきれいなんですがねー。ミスマガジン出身なので、シャベリの方はあまり問われず、写真映りの良さ(実物がたいしたことないという意味ではない)でデビューしたんでしょうね。読者特別賞か。読者投票で選ばれたんですね。
それから、女優として生きていくとなると、演技力が問われる。「少林少女」でも、彼女のセリフはアテレコのようだ(こういうのって外れていることも多いですが)。
ここまで書けばわかると思いますが、私は結構ファンです。「少林少女」を映画館で観た時は、彼女が出ているとは知らなかったので驚きました。あまり出番がなくて残念に思ったように記憶しております。ただ、例えば柴崎や江口洋介や岡村隆史を写す時はかなり高い確率で彼女がフレーム内に来るように撮っているから、サブキャラとしては優遇されている方でしょう(どうでもいいが、この気遣いをなぜストーリー展開に生かせないかなあ)。
今後とも、もう一段のブレイク目指して頑張って欲しいと思います。
2010年1月29日金曜日
農林水産省HPに学ぶべきこと
(前回の続き)
食料自給率とは何か?
「食料自給率とは、国内の食料消費が、国内の農業生産でどの程度賄えているかを示す指標のことです。」(農水省HPより。以下出典は全て同じ。)
どうやって計算するか?
「3種類の計算方法があります。」
具体的には?
・重さで計算 「重量ベース自給率」
・カロリーで計算 「カロリーベース総合食料自給率」
・生産額で計算 「生産額ベース総合食料自給率」
それぞれ日本の数値は?
・重量ベース自給率 ・・・農水省HPでは食料全体の数値は不明。
・カロリーベース総合食料自給率 ・・・41%
・生産額ベース総合食料自給率 ・・・65%
(上記はすべて最新値(平成20年度概算値))
さらに、田中氏のエッセイ中「米以外はほとんど自給できなくなっている。」との記述ですが、農水省統計では以下のとおり。 ということは、
・見方によっては65%は自給できている。
・田中センセーのいう39%(前回参照)って何?
実は平成18年のカロリーベース自給率が39%(史上最低値)。論旨に合わせるため数年前の数値をわざわざもってきたようだ。ズルいなー。
カロリーベースと生産額ベース、どちらを使用するのが適切なのか、という問いは無意味ではある(何を論じるかによるだろう)が、農水省HPには、生産額ベース自給率の説明として次の記載がある。
(生産額ベース自給率には、)「比較的低カロリーであるものの、健康を維持、増進する上で重要な役割を果たす野菜やくだものなどの生産等がより的確に反映されるという特徴があります。」
つまり、生産額ベースにもそれなりの良さがあるわけだ。ところが、日本の食料自給率を論じる場合、ほとんど常にカロリーベースが使用される。不思議な話です。
米 95%
に対し、
したがって、国産の農産物が利用されるよう、こうした食品産業の要望に応えていくことが期待されています。」 つまり、みんなが食べたいのは、日本で作っていない(作れないのではない)外国産の食品なのだ。
かんしょ 96%
野菜 82%
みかん 96%
鶏卵 96%(*ただし下記参照)
牛乳・乳製品 70%(*ただし下記参照)
海藻類 71%
きのこ類 86%
など、米の自給率に引けをとらないものもあります。すなわち、米だけしか自給できないというのは、嘘。
さらに、田中氏の「飼料や種子や加工食品の原料のことを考えに入れると」(米以外はほとんど自給できなくなっている)という記述についても、少なくとも飼料については重大な誤りがある。
「カロリーベース自給率の場合、畜産物には、それぞれの飼料自給率がかけられて計算されます。」(農水省HP)
つまり、仮にある畜産物が国産品100%でも、飼料の半分が外国産なら、自給率も50%となる。カロリーベース自給率において、飼料は最初から「考えに入れてある」のだ。
(私はこの、飼料を自給率計算で考慮するという発想はおかしいと思うが、いずれにしろこれに従うと上記*部は、
鶏卵 9%
牛乳・乳製品 29%
となるので注意。)
以上が田中氏エッセイの明らかな誤りだが、私が思うに、そもそも食料自給率が低い=問題・不安、という田中氏その他の人々の発想自体が間違いである。
食料自給率が下がる過程としては、次の二つがあり得る。
・国内でみんなが食べる食料が足りず、輸入する他ない!
・別に国内で食糧がまかなえないわけではないだろうが、食べたい物は輸入品。
言うまでもないことだが、問題であり不安であるのは、前者の場合である。
(私個人的には、この場合も問題ではないと思うが。後述)
では、日本はどちらなのか。明らかに後者である。
典型的なのが、小麦である。小麦のカロリーベース自給率は14%。皆さん一日一食くらい、パンを食べませんか?あるいはパスタ、ケーキ、うどん、ラーメン・・・。三食米を食えば、全体の自給率は上がる。なぜ米を三食食べないのか?小麦製品を食べたいからである。断じて、米が食べたいのに足りないから輸入品の小麦にすがっているのではない。いわゆる「食料安保論」では、急に輸入品が入って来なくなったら大変だ、と言われるのだが、日本人の場合、「その時はしょうがないから米でも食うか」、それだけのことである。
ちなみに、農水省もこう言っている。
「日本においては戦後、食生活の洋風化が急速に進んだという特徴があり、この急激な変化が食料自給率を引き下げてきた大きな要因となっています。日本では昔から主食(ごはん)を中心とした食生活が行われてきましたが、戦後、副食(おかず)の割合が増え、中でも特に畜産物(肉、乳製品、卵など)や油脂の消費が増えてきました。自給率の高い米の消費が減り、自給率の低い畜産物や油脂の消費が増えてきたことにより、食料全体の自給率が低下してきたのです。また、自給率低下の要因は、単に食料消費の変化があったということだけではなく、この消費の変化に生産が対応しきれなかったことも要因の一つであるといえます。
特に近年では、日々の食事の中で惣菜、冷凍食品といった調理・加工された食品の割合が増え、また外食をする機会も増えてきました。こうした中で、これまでの国内の生産では食品加工メーカーや外食店といった食品産業が求める要望に十分に応えられてきませんでした。したがって、国産の農産物が利用されるよう、こうした食品産業の要望に応えていくことが期待されています。」 つまり、みんなが食べたいのは、日本で作っていない(作れないのではない)外国産の食品なのだ。
ただし、農水省も結論としては自給率低下は問題としている。しかし「問題」の意味が違う。
「消費者が求め、消費者に選択される農産物や食品を供給することが、食料供給産業としての農業と食品産業が発展するための基本です。」
要するに、国の問題というよりは、「消費者(国民ではなく)のニーズに応えていない農業関係者、しっかりせいや。」、ということ、つまり生産者(と、多分政策担当者)にとっての問題として捉えているようです。農業関係者(と、多分自分)という身内を批判していて、ある意味誠実。
なお、食料安保論が出たのでこれも批判しておく。
この考え方の根本的間違いは、食料の供給者は、それを日本に売って金を稼いでいる、ということを忘れているという点である。すなわち、日本に食料を売るのをやめると、売り手にお金が入って来ないのである。顧客をスパッと切る、これはおいそれとできる決断ではない。例えば、アメリカが「ソニーとパナソニックとトヨタと本田がいっぺんにアメリカに製品を売らないと言ったらどうしよう」と心配するだろうか。アメリカに製品を売らなかったら、4社とも潰れてしまう。だからそんな心配をする必要はないのだ。
世界経済は持ちつもたれつである。それを、太平洋戦争前のABCD包囲網(日本を海上封鎖しても、ABCD各国は特に損をしなかった!)のような感覚で論じるからおかしな話になるのである。
その昔イラン革命でイランの日本に対する石油輸出がストップしたが、次の年(だったか?)から、イランの国家予算がその輸出額とほぼ同額削減されたという話がある。今日本に農産物を輸出している国で、農民が日本から1ドルも得られないことに耐えられるだろうか?
ちょっと田中氏の新聞エッセイから話がそれた。
いずれにしろ、農水省のHPもチェックしないような人が、ネットで与太話を書くくらいならよいが、偉そうに新聞紙上で(まあ大した新聞じゃないですが)現代の食糧問題など語らないで欲しい。ついでに言えば、江戸時代にも飢饉だの圧政だのがあった事実も踏まえて(思い出して?知っていて?)欲しい。
上記と関係ないが、田中氏エッセイ中、
「子供の貧困は進み」
は許しがたい一文である。江戸時代の方が現代より子供が豊かだったとでも言うのか???
田中氏エッセイには、こんな記述もある。
「気候変動、テロ、伝染病、戦争、何が起きても日本人は飢餓に陥る可能性がある。江戸人から見ると、なんと不安な国なのだろうか。」
これも許しがたい。日本が世界のどこからも食料が買えないほど食糧が逼迫した場合(それがテロによって起こしうるようなことかという疑問はさておき)、例えば世界中が異常気象に見舞われた場合、日本だけ食糧が豊富に取れるということがあろうか?少なくとも、江戸人は日本でだけ気候変動が起きた場合でも飢餓で死んでいたのだ。そっちの方がよっぽど不安だろ。
田中氏エッセイ「いざと、いうときの受け皿となっていた共同体はもはやない。子供さえ孤立し、親からも他人からも助けてもらえない。」
いざというときに共同体に助けてもらえる可能性、子供が親・他人から助けてもらええる可能性は、賭けてもいいが、今の方が高いはずである。いつの世にも、弱者に救いの手を差しべない共同体、親はいると思うが、現代と江戸時代の生活水準を考えれば、子供を守る余裕のある共同体・親が多いのはどちらかは自明である。江戸時代の最良のケースと、現代の最悪のケースを比べてはいけない。(現代は冷たい人ばかりで他人の子を助けるような奇特なコミュニティーは全く存在しないと思う方は、「ホームレス中学生」を読んで反省しよう!)
ちなみに、これも田中先生は知らないだろうが、江戸時代は、村の人口は横這い傾向にあった。その原因として、「間引き」があるとされている。言うまでもなく、生まれた子供を口減らしのために殺すことをいう。松平定信の寛政の改革の一つに、間引きの禁止がある。一方、民主党政権の改革に、間引きの禁止は含まれない。なぜか?間引きをする人がいないからである。さて、どちらが「不安の時代」なのだろうか?
なお、この手の勘違い現代論の似たような例として、「昔の学生に比べて、今の学生は本を読まない」というのがある。ごく一部の人だけが大学に行った全共闘世代のエリートと、大学全入時代の三流大学の学生を比べるのは馬鹿のやることである。
*食料自給率に関する部分については、野口悠紀雄氏の論述に示唆を受けた・・・、と勝手に思っていたが、今野口氏のサイトを確認したら、当方の駄文はほとんど質の悪いカーボンコピーですね・・・。もっと切れのいい論述を読まれたい方は野口氏サイトをご覧下さい。
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