ジュリスト3月1日号に、「日本国憲法研究第7回・思想・良心の自由 [基調報告]『思想・良心の自由を今,考える』」という早稲田大学西原博史教授の論文が載っている。
憲法19条は、実は国家からの思想・良心に対する介入の禁止という捉え方と、国家からの一定思想の(外的表れたる行為の)強制に対し国民がそれが自分の思想・信条と相反すると思うときにはこれを拒むことができる、という捉え方があり、これは信教の自由における政教分離と狭義の信教の自由の関係に似る。(もっとも、狭義の信教の自由と政教分離は、現に共存しているのだが、思想良心の自由の上記2側面は、共存するのだろうか? する、している、という前提なんだろうな。)
信教の自由同様、この二つの捉え方の間には緊張関係がある。すなわち、前者においては、社会的に「思想」として流通しているような一定の(おそらくはある程度体系性な)「信条」のみが問題となる。そうしないと、国家が何らかの主張・教育等する都度「これもひょっとして誰かの思想と抵触するかな?」などと考え出してきりがなくなるからだ。たとえば、Samが「子育てしないパパはかっこ悪い」と言っているポスターを作成しようと国が考えたとしよう。その際、「男は子育てすべきでない」と考える人が万一いたらまずい」ということになると、じゃあそういうポスターはやめようということになる。こう考えていくと、国はポスターなど作れなくなる。同様に、あらゆる国の啓蒙活動が不可能になり、最終的には国家による教育というもの自体不可能となる。
これに対し、後者は個人の側から考えるのだから、一応全ての「ものの考え方、価値観」が問題となる。
これはたとえば、音楽教師が「君が代」伴奏を拒むような場合に健在化する。前者によれば、「ピアノで伴奏する/しない、というくらいで『思想の問題』として論ずるのは言い過ぎではないか」ということになりやすく、後者によると、「とにかく本人が『それは私の良心に反する』と言っているんだから、憲法19条の問題となる」ということになる。
西原教授は、この後者の考え方(思想・良心の自由のアイデンティティー論的構成)を重視する。
それはそれで1つの考え方だとは思うが、日本社会においてはかなりの人々(people)が画一的な世界観・信念に囚われているから、西原教授の考え方は、具体的案件において、一般人の「常識」に反する結論を招きやすく、日本社会で共感を呼ばない(というか、大いに反感を買う)可能性が高いだろう。
それにしても、この論文で考察されている日本の社会状況(特に教育基本法改正の社会的背景)の分析は、私も大いに共感するところである(エらソやね)。
これについてはまたいずれ。
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