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2010年12月26日日曜日

世にもはしたない話2

以下前回の続き。

さて、前回、ノーベル文学賞にからんで蓮實重彥氏が内田樹氏からの批判(?)に反論(?)した話を書いた。(詳しい内容、というか真の内容[あまりの膨大な情報量に私ではまとめ切れません]は蓮實重彥『随想』の1をお読み頂きたい。)

で、いちおう内田樹のブログというものを確認しておこうと思ったのだが、読んでみたところ、これが、蓮實重彥氏が批判した部分以外にも問題が多い。前回引用部を、その前の部分も含め引用しつつ考察してみよう。
引用元は、ここ

私のような門外漢に依頼がくるのは、批評家たちの多くがこの件についてのコメントをいやがるからである。
加藤典洋さんのように、これまで村上文学の世界性について長期的に考えてきた批評家以外は、村上春樹を組織的に無視してきたことの説明が立たないから、書きようがないのである。
だが、説明がつかないから黙っているというのでは批評家の筋目が通るまい。
批評家というのは「説明できないこと」にひきつけられる知性のことではないのか。
自前の文学理論にあてはめてすぱすぱと作品の良否を裁定し、それで説明できない文学的事象は「無視する」というのなら、批評家の仕事は楽である。
だが、そんな仕事を敬意をもって見つめる人はどこにもいないだろう。
蓮實重彦は村上文学を単なる高度消費社会のファッショナブルな商品文学にすぎず、これを読んでいい気分になっている読者は「詐欺」にかかっているというきびしい評価を下してきた。
私は蓮實の評価に同意しないが、これはこれでひとつの見識であると思う。


ここでの「無視」は明らかに、批評家は村上春樹を肯定も否定も全くしない、という文字通りの意味である。「村上春樹を組織的に無視してきたことの説明が立たないから、書きようがないのである」、とわざわざ言っているからである。蓮實重彥はせめて評価はしているから見識がある、というのである。
しかし言うまでもなく、批評家は(村上春樹のノーベル賞受賞の予定コメント依頼に対してはともかく)村上春樹を無視などしていない。肯定・否定双方あると思うが、こぞって批評の対象にはしているのである。
内田本人も明らかに言いすぎと思ったらしく、5日後に再度ブログ記事をアップした。

日本の批評家は村上春樹を評価していないと書いたら、以前『B學界』の編集長だったO川さんからメールを頂いて、村上春樹を評価している批評家はたくさんいますよと名前を教えていただいた。
「三浦雅士、清水良典、石原千秋、川村湊、藤井省三、鈴村和成、風丸良彦、荒川洋治、川本三郎(特に初期において、現在は批判的)、柴田元幸、沼野充義、和田忠彦、芳川泰久氏、ほかに若い批評家、学者は無数」ということだそうですので、先日のブログのコメントは訂正させていただきます。

あ~、「無視」してるかどうかが、「評価」してるかどうかに変わっっちゃってる!!
「自前の文学理論にあてはめてすぱすぱと作品の良否を裁定し、それで説明できない文学的事象は『無視する』というのなら、批評家の仕事は楽である」とまで言ってたのに、いつの間にか、良否の裁定はしてることにすり替えちゃった。

それから、他にもおかしな部分がある。内田氏ブログに戻ろう。

私は村上春樹にはぜひノーベル文学賞を受賞して欲しいと切望しているが、それは一ファンであるというだけの理由によるのではなく、この出来事をきっかけに日本の批評家たちにおのれの「ローカリティ」にいいかげん気づいて欲しいからである。
純文学の月刊誌の実売部数は3000部から5000部である。
この媒体の書き手が想定している読者は編集者と同業者と、将来編集者か作家か批評家になりたいと思っている諸君だけである。
そのような身内相手の「内輪の符丁」で書くことに批評家たちはあまりに慣れすぎてはいないか。

純文学の月刊誌の実売部数など知らないが、↑これはいかにも俗耳に入りやすい議論であり、実際誰も読んでいないというなら言った者勝ちなのだが(頭脳プレイ!!)、実際そんなことがあるものか!! 少なくとも、蓮實氏などは映画評論を通じて世界で勝負している。むしろフランスやアメリカの批評理論の直輸入すぎると批判されているくらいであろう。

そもそも、内田氏は偉そうに批評家の批判などしているが、批評家の論文など読んですらいない。
例えば、蓮實氏のいう「小説」と「国語」の問題は、蓮實氏の初期の著作『反=日本語論』から既に登場している。その問題系を要約すれば(本当は要約できないが、無理に言えば)、小説は近代国民国家の成立に際し、国語というものを確定するという役割を果たし、これによって国民国家の統合に加担した、という暗黒の歴史を持っている、そして、そんな文学形態の成立と同時にそのような役割に違和感を覚えたごく少数の優れた作家が、それを内側から食い破るような作品を残した、という問題意識である。(村上春樹の小説はこのような問題意識が余りにも希薄であり、評価できない、というのが蓮實氏の村上評である。・・・そうすると、その帰結として、村上春樹の小説は、常に国民国家=権力の側に与することになる、という点で、読むこと自体が反動的である、ということになるのではないかと思われる。実際、小説を読むことの反動性に鈍感であってはならないというような話が、『絶対批評宣言』の『男流文学論』の批評の項で書かれていたと記憶する。)

ところが、内田氏はそういう点を全く踏まえていない(知らないはず)。
以下は、松浦寿輝と川村湊が村上春樹の小説には日本近代文学の記憶の厚みがなく、土地も血も匂わない、と述べた部分に対する批判であり、内田氏の無知ぶりが垣間見える。
http://blog.tatsuru.com/archives/001433.php
たしかに、ウェストファリア条約以来、地政学上の方便で引かれた国境線の「こちら」と「あちら」では「土地や血の匂い」方がいくぶんか違うというのは事実だろう。
だが、その「違い」に固執することと、行政上の方便で引かれた「県境」の「こちら」と「あちら」での差違にもこだわりを示ことや、「自分の身内」と「よそもの」の差違にこだわることの間にはどのような質的差違があるのだろうか。
例えば、次のような会話をあなたはまじめに読む気になるだろうか?
A でも、これはマスターキーのような文学だと思った。どの錠前も開くから、東京中の人を引きつける。しかし、世田谷近代文学の記憶の厚みがなく、不意にどこからともなくやってきた小説という感じ。
B 目黒区の大学院生たちも、違和感がない、と言っていた。
奇妙な会話だ。
しかし、批評家たちがしゃべっているのは構造的には「そういうこと」である。
なぜ、「世田谷近代文学の記憶の厚み」はジョークになるのに、「日本近代文学の厚み」はジョークにならないのか?

これだけではちょっとわかりづらいかもしれないが、AとBの会話の部分は、松浦氏と川村氏の対談中、世界を東京に、日本を世田谷に変えたパロディ(のつもり)である。
要するに、松浦氏・川村氏は村上春樹には日本近代文学の記憶の重みがないなどと言っているが、世界の中の一地域であるに過ぎない「日本」と、例えばインドの違いにこだわるのは、世田谷区と目黒区の違いにこだわるのと同じで下らない、というのが内田氏の主張なのである。
上に述べたところでもうお分かりだろうが、「世田谷近代文学の記憶の厚み」はジョークでも、「日本近代文学の厚み」はジョークにはならない。前者には「国語」の問題がないのに対し、後者にはあるからだ。この両者の差は安易に「構造的に」還元できないのである。言うまでもなく、松浦寿輝と川村湊が「日本近代文学の厚み」について語るとき、上に述べたような「国語」の問題は、完全に議論の前提となっている。これは、おそらく文芸誌で文芸批評をするような批評家の(賛成反対はともかく)常識なのであろう(おそらく蓮實重彥著『反=日本語論』を読んでいない批評家はいないし、また同様の問題意識を持つ著作・著者も少なからずあると思われるからである。)

そうだとすると、内田氏が、現代の批評家は「身内相手の『内輪の符丁』」でものを語っている云々と批判するのも、単なる勉強不足で前提知識が不足している内田には批評家の書いていることの意味がよくわからない、ということに過ぎないのかもしれない。勉強不足に気づきすらせず他人を批判するとは、これまた「はしたない」議論ではある。

この項続く。

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