「1 文学の国籍をめぐる
はしたない議論の
あれこれについて」
は、まずこの題の「はしたない」がお上品で面白い。『凡庸さについてお話させていただきます』というのもあったな。(この『随想』には自分の新華族の出自からして、下層階級について書かれた樋口一葉の「十三夜」を、優れた作品と思いながらも、語る資格がないのではないかと考えていた話(こう書くと馬鹿馬鹿しく思うかも知れませんが、実際には、祖母のエピソードと「十三夜」の記述との連関について具体的な理由が書かれています)も出てきます。)
それはともかく、ここで「はしたない」人の筆頭に挙げられているのは、自分と同国籍の者がノーベル文学賞を取ること(または取らないこと)に対し、あからさまに希望・喜び(失望・落胆)を露わにする人々である。
2008年に同文学賞を受賞したル・クレジオ(フランス人)がモーリシャス出身であることを捉えて「半分は英国人」と書いたタイムズ紙の記者、「フランス文化の凋落」との見方を否定する快挙とするフランスの首相、物理学賞を取った南部陽一郎(米国籍)を当初日本人として報じた日本のマスコミや、日本国籍喪失を「もったいない」として国籍法の改正を検討し始めたという日本の政府与党などが挙げられている。
さらに批判はアメリカの作家を十把一絡げに否定するスウェーデン・アカデミー事務局長や、ル・クレジオの名すら知らなかったとあられもなく述べてしまったロサンジェルス・タイムズのスタッフ・ライターに及び、「日本人の特技であった」「あまりに孤立し、島国的な偏狭さ」(スウェーデン・アカデミー事務局長自身の言葉)は「どうやら日本人の特技ではなくなろうとしている」と著者は一旦結論づける。
この後、ル・クレジオはクロード・シモン(過去同様にノーベル文学賞を取ったフランス人作家)ほど優れてはいないが、文学賞など作品の文学的な価値の評価の基準たりうるとは思っていないから、一応優れた作家であるル・クレジオであろうが、川端であろうが村上春樹であろうが、誰が受賞しようともそれに反対などしないと話は続いていく。
さて、まったくもっておっしゃるとおりの議論であるが、ここまでは(蓮實氏はともかく、このブログにとっては)前振りである。
ここで唐突に(そう見えないように周到に叙述されているが)話は内田樹のブログの話になる。そこにこう書いてあるというのだ。
「蓮實重彦は村上文学を単なる高度消費社会のファッショナブルな商品文学にすぎず、これを読んでいい気分になっている読者は『詐欺』にかかっているというきびしい評価を下してきた。http://blog.tatsuru.com/2008/10/
私は蓮實の評価に同意しないが、これはこれでひとつの見識であると思う。
だが、その見識に自信があり、発言に責任を取る気があるなら、授賞に際しては『スウェーデン・アカデミーもまた詐欺に騙された。どいつもこいつもバカばかりである』ときっぱりコメントするのが筋目というものだろう。
私は蓮實がそうしたら、その気概に深い敬意を示す。」
(上の箇所は、村上春樹ノーベル文学賞受賞のコメントの予定稿をS,K,Yの三新聞から求められた、という前振りに続く部分である。)
内田樹からすれば、自分のようなチンピラのブログごときを御大が気に留めるとは思わなかったのだろうが、「あるブログにそう書かれていたと教えられ」て読んだ内容がよほど気に障ったのか、蓮實氏はわざわざ反論している。
この内田氏のブログに対する蓮實氏の、
「この書き手の夢があっさりついえさったいま、この頓珍漢な文章に律儀に答えることはあるまいが、」
とのキツーイ前置きとともに始まる批判をだいたいまとめれば、次のとおりである。
・別に受賞に反対しない。(理由上述)
・内田の敬意などいらない。
・村上春樹を評価できないのは、「たかだか『近代』の発明にすぎない『国語』を自明の前提として書きつつある自分への懐疑の念が、この作家にはあまりにも希薄だ」から。「高度消費社会のファッショナブルな商品文学」などという「通俗的な理由で」否定しているのではない。
・ル・クレジオが今年受賞するのは周知の事実だった。そんな情報収集能力のない程度の低い記者に「適当にあしらわれているという屈辱感がまるで感じられない」。
・ノーベル賞の「受賞によって、『村上文学の世界性』が証明されるなどと、本気で思っている大学の教師がいるのだろうか。やれやれ。」
まあ、最初の、別に受賞に反対しないのに、という点は、内田も、
村上春樹が受賞した際に「スウェーデン・アカデミー・・・もバカばかりである」と
(言えるものなら)言ってみろ、(言えないだろう、)
と挑発しているだけで、
「反対しろ」
とまでは言っていないので、いささか被害妄想的だが、内田の真意はおそらく「反対しろ」ということなのだろうから、大した違いはあるまい。
いずれにしろ、万一村上春樹がノーベル賞を取ったときに蓮實氏がコメントを求められたら、たいした作家ではない、と自論を述べるのは目に見えている。そもそも、ノーベル賞受賞者の批判は、内田氏にとってはとんでもないことなのだろうが、大した賞ではないと考える人も結構多いはずだ(佐藤栄作が平和賞を受賞して以来、特にそうだろう。大江健三郎の文学賞受賞の際にも、実力を否定した人はいなかったと思うが、「戦後民主主義」とか、記念講演を批判した人は結構いたと記憶している)。
なお、蓮實氏ははっきり書いていないが、内田は受賞コメントの予定稿の中で「『村上春樹のノーベル文学賞受賞』というような日本文壇をあげてことほぐべき事件」と述べて、村上春樹がノーベル賞を取る=日本の文壇(日本人?)はこれを祝うべきということに一点の疑問も抱いていない。まさに蓮實氏言うところの「あまりに孤立し、島国的な偏狭さ」に陥った、「はしたない」議論を展開していると言えよう。
この項続く。
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