カートコバーンは、ヘヴィーロックバンド「ニルヴァーナ」のヴォーカリスト兼ギタリストとして、ロック史上に残る名作アルバムを1枚、年間トップ3に挙げ得る傑作アルバムを1枚、そしてまあまあかっこいいアルバムを1枚残して、そして死んだ。彼1人で作ることができたわけではない。アルバム「Nevermind」のサウンドプロダクションも当時最高レベルのカッコよさだった。そして何よりドラム!ドラマー、デイヴ・グロールの貢献度が大きい事は、アルバムを聞けばすぐわかるはずだ。
さて、それとは全く関係のない話なのだが、ある時期からカートコバーンは、グランジロックの王様としてポップアイコンに祭り上げられるようになった。それとともに、彼はスキャンダルジャーナリズムの餌食となり、パパラッチに追い回されるようになった。
先に述べた三枚のアルバムが彼のアーティストとしての経歴であり、そのパートナーがデイヴだったとすれば、ポップスターとしての彼の一面を代表するのは、これらのスキャンダルであり、パートナーは彼の妻であった。夫同様ロックバンドの一員であった彼女は、その個性と奇矯な行動で、(もっとも軽薄な意味で)時代の寵児の私生活を飾り立て、バカなジャーナリストどもは競ってそんなどうでもよい話を記事にした。(彼らに呪いあれ!)
そんなカートの悲しくも馬鹿馬鹿しい最後のスキャンダルが、言うまでもなく彼の自殺である。天才ミュージシャンの夭逝は、当時はもちろん、今もなお軽薄な、くだらない言説の対象としてしゃぶり尽くされ、消費されている。彼の妻は、そんな状況の中で、「Live Through This」などというあからさまなタイトルのアルバムまで出して、夫の死を自分の人生の、そして仕事の糧として、精神的のみならず、経済的にも生き延びようとした。あなオソロシや。
とにかく、私が言いたいのはこういうことだ。カートは妻とセットで、そのスキャンダルについて語るべき人ではない。デイヴとセットで、そのアルバムについて語るべき存在なのだ。以上より、椎名林檎のあの歌は最悪である。「私がFoo Fightersじゃない?ダーリン」となぜ言えないのか。〔Foo Fighters=カートの死後デイヴがやってる目茶目茶かっこいいバンド。ジャンルとしてはメロコア、と昔は呼んでいた。)
さて、そこで映画「ソラニン」の話だ。
「ソラニン」は、マンガ原作の、宮崎あおい主演の青春ドラマ映画である。あおいちゃんの演技にハズレなし。いつもながら感動的な演技を見せている。しかも今回はロックバンドのギタリスト・ボーカリスト役として、カッコよくギターまで弾いている。脇を固める役者たちも着実な演技を見せ、特に最近人気実力とも急上昇中の桐谷健太君は、ここでも力強い演技を見せている(ドラマー役も様になっている。もともと叩けるらしい)。まあ要するに、なかなか立派な映画と言ってもいいのかもしれない。
では、何が問題なのか。
【注意!! 以下映画のストーリーのネタばれがあります。】
宮崎あおい演じる芽衣子さんには、フリーターとして働きながらロックバンドをやっている同棲相手がいて、前半は二人の切ない自分探しを追ってストーリーが展開していく。
それはまあよい。ところが後半、彼が夢破れてなかば自殺気味に事故死してしまう。彼の生前、自分の生きがいを見出せず悩んでいた芽衣子さんは、彼のバンド仲間とバンド活動をすることで、彼の死を乗り越え、自己実現を果たして自らの人生を歩き出す・・・。
もうお分かりだろう。これは、まさにカートとその妻の話なのだ。(これだけ読むと、考えすぎなんじゃないの、という人がいるかもしれないが、回想シーンで彼が「好きなアーティストと同じギターを買ってバンドを始めた」と語るそのギターが、カートの愛したフェンダーの水色のギターで(これはパンフにも書いてある)、それを語る時に彼が着ているTシャツには、ご丁寧に「NIRVANA」という文字と、カート・デイヴともう一人(どうでもいいが一応名をクリスという)の絵が書いてあるのだから、この読みはまあまず間違いないであろう。)
しかも、そもそも芽衣子さんは、彼が死ぬ前は、やりたいことが何もない、生きがいのない女の子だった。何の変哲もない自分の人生を輝かせるため、「バンド頑張れ」と彼を追い詰めて、彼から「自分の人生を全部俺におっ被せようとすんな」みたいなことまで言われるのである。それが彼の遺志を継いで(?)、バンド活動を行うことで、歌により、人生の生きがいのごときものをみつけるのである。先程彼の死を乗り越えてと書いたが、彼の生前から芽衣子さんの人生がぱっとしなかったことを考えると、それは正確ではない。彼女の人生は、まさに彼の死によって初めて輝くのである。
しかし、誰かが死んで、そのおかげで他のだれかの人生が生気を帯びるっていうのは、やはりルール違反ではないだろうか。芽衣子さんの彼=種田は、というか誰であろうと、芽衣子さんの人生を輝かせるために生きて、悩んで、死ぬ訳じゃない。人の死を、自分の生の輝きのための肥やしとするという、この映画のストーリーは、ほとんど人倫にもとっている。おまえは吉本ばななか(「スライ」で同様の非道なストーリーを展開)。「世界はお前中心に回っているわけじゃないぞ。」
というわけで、同じことを男女逆でやったのが、「世界の中心で愛を叫ぶ」(小説版)である。「世界の中心で」とはよく言ったものだ。主人公の男の子の愛する彼女が10代で死ぬ話を読んで「私もこんな恋愛がしてみたい」とのたまった柴崎コウさん、きっとソラニンもお気に召すことでしょう。(なお、TVドラマ版セカチューは、そんな小説のしょうもなさに対する反省の上に立って作られた名作である。「セカチュー」にも、いろいろあるのだ。)
そういうわけで、ソラニンは、最悪の題材(コバーン夫妻のラスト・スキャンダル)を、しかも最悪の展開(一方の死により、パートナーの人生が輝き出す)で見せる恐ろしい映画なのだ。製作者に呪いあれ!
以上より、この映画の(反面教師としての)教訓は以下の通りとなる。
・カート・コバーンは、その妻とでなく、デイヴ・グロールとともに語られなければならない。ソラニンの製作者だの椎名林檎だのはもっと勉強しなさい。
・ あらゆる人間は自己目的的に存在するべきであり、他の何者の目的となることも許されない(カント)。他人の死で輝く人生など、唾棄すべきである。
・あおいちゃん、仕事は選んで欲しい。
・でも好き。
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