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2010年9月23日木曜日

Original 芯

 「ノルウェイの森」の続きを読んだから、いつぞやの宿題を片付けておこう。
 宿題というのは、この小説に、「緑(という大学の同級生の女性)と恋に落ちたワタナベくん(男性。主人公)が、もう一人の思い人直子(死んだ親友の彼女で、精神病院入院中。彼女はワタナベくんを愛してはいない)との関係の維持できないと思い始めた」というくだりがあったかを確かめるということだった。

 緑と互いの愛を確かめ合ったワタナベくんは、直子のルームメイトのレイコさんにそれを手紙で知らせる。
 しかし、レイコさんから、それは自然なことであり、気に病む必要はない、ただ直子に言うのは危険だからやめようという返事が来る。ここがミソである。
 おそらく多くの女性の読者は、緑と深い関係になることを選択したワタナベくんは、直子との関係を変えざるを得ない、と思うかもしれない。しかし、男性の視点で言えば、必ずしもそうはならない。この時点で、直子はもともと精神病院にいて滅多に会えず、ワタナベくんはもっぱら手紙を通じてしか直子とコミュニケーションをとっていないのである。緑とよろしくやって、直子との関係も今までどおりにするなど、造作もないことである。ワタナベくんはそれを気に病むような男でないことは、前半の場面に散りばめられた他の女性たちとのストーリーで明らかである(というか、ワタナベくんが男であるという一点からして明らかである。男とはそういうものだ)。よき相談者のレイコさんも、緑とのことを直子に言わなくていい、と都合のよいアドバイスをしてくれているではないか。
 このようなものの見方は、男女の愛は1対1の関係でなければならぬと信じる平均的女性たちにとっては許しがたいものであるが、男性の多くは、あわよくばこのようなシチュエーションが成り立たないものか、という願望を内に秘めているものである。この小説では、この男性的目線での読みが困難なように書かれていて、だからこそ女性の共感を呼んだのであるが、「困難」なだけであって、男性的目線での読みが全く排除されているわけではない。レイコさんへの手紙にも、僕はどうしたらよいでしょう、と言っているだけであって、「僕は今までのように直子に接することができない」とは書いていないのである。(意地悪な見方をすると、ワタナベくんの手紙は「レイコさんから直子にうまく言っといて。それで直子が壊れても、僕は責任取らないけど。」という手紙にすら見えるのである。)
 直子が自殺する原因も、(周到にそうでないように読めるように書かれているが、)ワタナベくんの裏切りにあることは明白である。(直子は緑とワタナベくんの仲の進展を知らないはずだって?小説で叙述された出来事は、読者に明らかとなった以上、登場人物にとっても常に明らかであらざるを得ないのだ!)
 私が思うに、ワタナベくんが二股をかけたこと自体は、別に反倫理的というわけではない。男とはそういうものだし、いずれにしろ彼は自分の全存在を賭けてそれを選んだのだ。直子が死んだのは、無論ワタナベくんの責に帰すべきである。しかし、それは男のもっとも本質的部分の性質(芯、ね)に由来する行動の産物であり、いわば女性に対する男性の原罪ともいうべきものである。問題は、ワタナベくんが自らの罪を自覚していない点にある。直子が死んで、おそらくはそれが自分の二股と関係があるとワタナベくんもうすうす気づいてはいる。にもかかわらず、(誰のせいでもない、と言うレイコさんに対して)「そんなことはもうどうでもいいことなのだ。直子はもうこの世界には存在せず、一握りの灰になってしまったのだ。」などと独白する主人公。何が「どうでもいいこと」だ。なぜ「そうではない。俺のせいだ。」と自分の選択の責任を引き受けようとしないのだ。そのことが、この男のもっとも反倫理的なところなのだ。ワタナベくんは、小説冒頭部の、直子の死から20年後のシーンで、いまだ直子の死を引きずっており、あまり幸せでないように見える。なぜひきずるのか、それが単なる感傷からでなく、一度も正面から責任を引き受けなかった下衆野郎だからであることは実は明らかであり、それにワタナベくん、作者、ひいては読者すらも気づいていない点が、この小説のまさにベストセラーになった理由である。倫理的な小説など、誰も読みたくはないのだ。
 

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