「現代社会における「言語」「記憶」「想像力」の低下をどうくいとめるか」
前半は、言語とは単なるコミュニケーションのツールではなく、「思考の道具であるとともに、思考そのものでもある」、という、80年代によく見たソシュール言語学的な言語の説明。
言語こそが思考を規定するというわけだ。
後半はよく見る若者批判となる。
「この言語の能力が低下すればどうなるか。言わずと知れた、思考力の低下をひき起こすことになるのである。昨今、若者の言語力が落ちてきたと言われるが、別に若者に限ったことではない。おそらくは私たち全員が、パソコン、ケータイ、電子辞書といった便利ツールに囲まれながら、文字を覚えることも、文を暗記することも、彫琢(チョウタク)された文章を書こうとすることもなく、日々の多忙におし流されているのではないだろうか。」
一応「若者に限ったことではない」と書いてあるが、公平を装っているだけに過ぎない。こうくる。
「そんなわけで、最近の学生さんたちは、暗記の努力ができなくなってきている。フランス語の初歩でも、時によると、英語のbe動詞にあたるêtre動詞の活用を暗記することさえままならない。こうした記憶力の低下は、そのまま歴史意識の低下にも、空間的・地理的意識の低下にもつながることになるだろう。ことほどさように、彼らは、グローバル化の時代と言いながら、世界の国々と首都をあげさせてみても、国内の県と県庁所在地をあげさせてみても、時代の順序を言わせてみても、いずれも惨憺たる結果を示してくれることになる。」
自分の若い時になかった便利な機械を今の若者が使っていることが、よっぽど気に入らないんでしょう。何の根拠もなくパソコンなどを犯人扱いして、今の若い人をバカ呼ばわりするという、全共闘世代特有のゲス発想。だいたい、歴代の中央大学理工学部のフランス語履修学生が、どの程度être動詞の活用を暗記していたのか、テストの平均点の推移でも出して論証してもらわないと、「最近の学生さんたち」の記憶力が落ちているという前提自体、全く説得力がない。「中央大学文学部仏文科卒業・同大学大学院を経て、パリ大学大学院で学」んだ加賀野井センセーの「実感」(偏見とも言う)だけで語られても困ります。そんな文章で「言語」の「低下」を語られてもなあ。大体、「『言語』の『低下』」自体、日本語としておかしいでしょう。
このブログはもっと科学的、統計学的にいきたい。
そこで、40歳以上、大卒、パソコン・ケータイ・電子辞書のない時代に大学で第二外国語(ヨーロッパ語)を習ってそれ以来使っていないというそこのあなた、être動詞(/sein動詞/ser動詞/essere動詞)の活用を、1/2/3人称(敬称/親称)、単数形/複数形、過去形、過去分詞と全て言ってみよう!・・・・言えます?
だいたいこの手の輩は「本を読め」と結論付けるのが通例、そして、「書を捨てよ、街へ出よう」(寺山修司)に言及する率も高いんだよね、と思いつつ読み進めると、ハイ来ました。
「こうした諸君には、寺山修司流に、まずは「便利ツールを捨てて街に出よ」と言ってみたくもなるのだが、ケータイ中毒になっている彼らには、はなから相手にしてもらえそうもない。仕方がないので、目下のところ私は、せめてもの埋め合わせにまずは読書をしなさいと勧めることにしている。なにしろ、最近の大学生の中には、一年間に一冊の本も読まないという者さえ珍しくはなくなっているのだから。」
こういう、判で押したような若者批判って、書いてて恥ずかしくないのかな?
だいたい、本は60代より20代の方が読んでる。
第31回 読書世論調査データで検証する「読書離れ」のウソ
思考を不自由にするのは、言語だけではない。単なる思い込み、やっかみや嫉妬、新テクノロジーへの敵意・・・まずそこから気をつけないと。構造主義を偉そうに語る前に、そういう基本を押さえた方がよろしいんじゃないですか。
さて、中大教授のアホエッセイを読んだ後、似たような題材から出発する、しかし全く趣の異なる一服の清涼剤のような清清しい文章に接した、のだが、もう疲れたから、以下は次回へ。
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