LISMO portのソフトの更新表示が出たので何気なくOKしたら、しまったー、X-アプリ for LISMOがまた立ち上がらなくなった!!何度やっても、「データベースファイルが見つからない、または読み取れません。」と出る。「OKをクリックすると、データベースの復旧を試みます。」と一応出るけどOKしても、最終的には「データベースを更新できません。他のプログラムがデータベースを称している可能性があります。(エラーコード:000041a5)」と出る。これをネットで検索しても、再インストールするしかない、との冷たい回答しかない。
http://www.naruhodo-au.kddi.com/qa4362635.html
前回同様の症状が出た時は、全てインストールし直した。データはネット購入分も含め全て消え去り、機種変更時に旧携帯内のファイルはパソコンにも新携帯にも移せなかった(今は移せるのかもしれないが)。取得ポイントもあってauに忠誠を捧げてきたけど、こういちいちトラブるのでは、そろそろ限界かな・・・。
2010年12月31日金曜日
2010年12月30日木曜日
欲望は拡大する
AKB48愛も病膏肓に入るの感あり、最近では小野恵令奈ちゃんが可愛くって仕方がない、ってもういないのね(写真集を買ってしまった)。
と思ってたら、昨日ロンドンハーツの5時間スペシャルに大島麻衣ちゃんが出てました。恐ろしく可愛い・・・。それはフルーツポンチ村上だって我を忘れるって!!そんな麻衣ちゃんももういないのね。まあ麻衣ちゃんはテレビで見れるからまだいいですけどね。
でも、例えばすいえんサーとかは大島麻衣ちゃんがメイン司会の一人で、AKBの他のメンバーが実験ガール(すいえんサーガールズ)として出てくる、まさにアイドルカースト制度状態だったけど、今となっては立場も逆転気味ですね。平家みちよとモーニング娘。みたいなことにならないよう、麻衣ちゃんにも頑張って頂きたいものである。可愛いことは間違いないんだから。ロンブー淳にやたら腹黒呼ばわりされるのは気になるが(TVは影響力でかいからなー)。アイドルなんだから大目にみてやれよー。
と思ってたら、昨日ロンドンハーツの5時間スペシャルに大島麻衣ちゃんが出てました。恐ろしく可愛い・・・。それはフルーツポンチ村上だって我を忘れるって!!そんな麻衣ちゃんももういないのね。まあ麻衣ちゃんはテレビで見れるからまだいいですけどね。
でも、例えばすいえんサーとかは大島麻衣ちゃんがメイン司会の一人で、AKBの他のメンバーが実験ガール(すいえんサーガールズ)として出てくる、まさにアイドルカースト制度状態だったけど、今となっては立場も逆転気味ですね。平家みちよとモーニング娘。みたいなことにならないよう、麻衣ちゃんにも頑張って頂きたいものである。可愛いことは間違いないんだから。ロンブー淳にやたら腹黒呼ばわりされるのは気になるが(TVは影響力でかいからなー)。アイドルなんだから大目にみてやれよー。
M.I.W./自画像
久し振りに蓮實重彥の本を読んだものだから、いまシャンテシネでやってるゴダールの映画など観に行ってしまった(『ゴダール・ソシアリスム』)。
青山監督は激賞してます(パンフレット)が、やっぱり分かりませんなー、私のような素人には。キネマ旬報2010年12月下旬号でリドリー・スコット監督が「(劇場公開用映画を)3時間の長さにすると、劇場に来る観客に苦痛を与える。だいたいの場合、2時間半を過ぎると確実に劇場の雰囲気が変わりだすね。」と述べていますが、それはリドリーの映画の場合であって、月曜最後の回のシネシャンテでは、1時間で多くの頭が揺れだしました。私は思いましたよ、「リドリーが言ってたのはこれか」と。
あ、今気づいたのですが、青山監督のコメントには「ここには、いつにもまして何の変哲もない、ごく普通の映像と音響があるだけなのだ。」とありますが、これは相当ひねりの利いた一文ですね。どこに基準を置くかはともかく、ゴダールの映画の映像・音響は、通常の意味で「ごく普通」とは到底言えない(特に音響)ですからね。
ゴダールと言えば、エリック・ロメール監督の死を伝える蓮實氏の文章(『随想』)で、ネットを閲覧していた奥さんから、(奥さんが見つけたショッキングなニュース=後にロメールの死についてであることが分かる、について)心して聞けと言われた蓮實氏が、
と述べるその映画作家はゴダールに違いない、と思いつつ、Jeanはヨハネだろうが、Lucなんて使徒がいたのだろうか?やっぱり違うかな、と思いつつ、読み流していたが・・・。
後で、もしゴダールのことを言っているのであれば、Lucは(それらしい感じでいうと、)ルカかな、
と思い、wikiでルカのページを開いてフランス語のページに飛んで見たところ、やはりルカのフランス語の綴りはLucでした。
英語ではLuke(ルーク)ですが、ドーバー海峡を越える前はLuc(リュック)だったのね。
そう言えば、聖路加国際病院の読みはセイルカ・・・なんですよね。
今日のタイトルは、MATTAKU IMI WAKANNAI そんな私、という意味です。
青山監督は激賞してます(パンフレット)が、やっぱり分かりませんなー、私のような素人には。キネマ旬報2010年12月下旬号でリドリー・スコット監督が「(劇場公開用映画を)3時間の長さにすると、劇場に来る観客に苦痛を与える。だいたいの場合、2時間半を過ぎると確実に劇場の雰囲気が変わりだすね。」と述べていますが、それはリドリーの映画の場合であって、月曜最後の回のシネシャンテでは、1時間で多くの頭が揺れだしました。私は思いましたよ、「リドリーが言ってたのはこれか」と。
あ、今気づいたのですが、青山監督のコメントには「ここには、いつにもまして何の変哲もない、ごく普通の映像と音響があるだけなのだ。」とありますが、これは相当ひねりの利いた一文ですね。どこに基準を置くかはともかく、ゴダールの映画の映像・音響は、通常の意味で「ごく普通」とは到底言えない(特に音響)ですからね。
ゴダールと言えば、エリック・ロメール監督の死を伝える蓮實氏の文章(『随想』)で、ネットを閲覧していた奥さんから、(奥さんが見つけたショッキングなニュース=後にロメールの死についてであることが分かる、について)心して聞けと言われた蓮實氏が、
「われわれ二人にとってかけがえのない人物の訃報に違いなかろうと身構えながら、まさかと思いつつも覚悟を決め、今年で八十歳を迎えるある映画作家のファーストネイムを口にしてみる。名高い使徒の名前を二つ律儀に組み合わせた洗礼名であり、・・・」
と述べるその映画作家はゴダールに違いない、と思いつつ、Jeanはヨハネだろうが、Lucなんて使徒がいたのだろうか?やっぱり違うかな、と思いつつ、読み流していたが・・・。
後で、もしゴダールのことを言っているのであれば、Lucは(それらしい感じでいうと、)ルカかな、
と思い、wikiでルカのページを開いてフランス語のページに飛んで見たところ、やはりルカのフランス語の綴りはLucでした。
英語ではLuke(ルーク)ですが、ドーバー海峡を越える前はLuc(リュック)だったのね。
そう言えば、聖路加国際病院の読みはセイルカ・・・なんですよね。
今日のタイトルは、MATTAKU IMI WAKANNAI そんな私、という意味です。
2010年12月27日月曜日
世にもはしたない話 おまけ(風車小屋へ!)
内田樹のブログでは、蓮實重彥の批判を受けた直後の2009年の10月には村上春樹ノーベル文学賞受賞(注 実際には受賞してないからね)に対するコメントの予定稿をブログで公表しなかったようであるが、2010年にはまた予定稿の公表を復活させていた。懲りないねー。
ただし、2010年のブログではもう蓮實批判の部分はなくなった、どころか、「日本の批評家は村上春樹を無視している/評価していない」云々という記載もなくなっている。具体的には、このような書き方になった。
2008年の内田ブログでは、蓮實重彥氏が、村上春樹はグローバル化した社会に共通する先端的な風俗や感性のようなものを達者な筆致で描いているに過ぎない、と批判している(がそれには賛成できない)と書いてあった。ところが以前述べたとおり、蓮實氏に、自分はそんなことは言っていない、と反論されてしまったため、今回は批判の対象がぼかしてある。他の批評家の名前にすげ替えていないところを見ると、まあ要するに誰もそんなこと言っていなかったんでしょう。でも、誰も言ってないのに批判するって、ドンキホーテの風車小屋への進軍みたいですね。頑張るなあ。
ただし、2010年のブログではもう蓮實批判の部分はなくなった、どころか、「日本の批評家は村上春樹を無視している/評価していない」云々という記載もなくなっている。具体的には、このような書き方になった。
「村上春樹の世界性を担保しているのは、彼が『グローバル化した社会に共通する先端的な風俗や感性』のようなものを達者な筆致で描いているからではない。」
2008年の内田ブログでは、蓮實重彥氏が、村上春樹はグローバル化した社会に共通する先端的な風俗や感性のようなものを達者な筆致で描いているに過ぎない、と批判している(がそれには賛成できない)と書いてあった。ところが以前述べたとおり、蓮實氏に、自分はそんなことは言っていない、と反論されてしまったため、今回は批判の対象がぼかしてある。他の批評家の名前にすげ替えていないところを見ると、まあ要するに誰もそんなこと言っていなかったんでしょう。でも、誰も言ってないのに批判するって、ドンキホーテの風車小屋への進軍みたいですね。頑張るなあ。
世にもはしたない話 番外編
世界の文学がどの程度翻訳されているのかネットで検索してみた。
以下は翻訳が出ている国の数なのか言語の数なのか曖昧なものもあるし、作家単位・作品単位が混在しているし、また最新情報かもわからないのだが、まあ大体のことは分かるだろう。
内田樹氏の理屈によれば、『ノルウェイの森』(村上春樹)は『砂の女』(安部公房)より名作で、『ハリーポッター』より駄作だ、ということになりますね(世にもはしたない話1~3参照)。ハハハハハハ。
それにしても、『おっぱいとトラクター』って何よ。ちょっと読んでみたい。
以下は翻訳が出ている国の数なのか言語の数なのか曖昧なものもあるし、作家単位・作品単位が混在しているし、また最新情報かもわからないのだが、まあ大体のことは分かるだろう。
内田樹氏の理屈によれば、『ノルウェイの森』(村上春樹)は『砂の女』(安部公房)より名作で、『ハリーポッター』より駄作だ、ということになりますね(世にもはしたない話1~3参照)。ハハハハハハ。
安部公房 30ヶ国以上
砂の女 20数ヶ国語
小川洋子 10ヶ国以上
ノルウェイの森 36ヶ国/40ヶ国語 など諸説あり
ハーレクイン社の書籍 25言語94ヶ国
おっぱいとトラクター 37ヶ国
素数たちの孤独 30ヶ国
解剖学者 33ヶ国
悪魔とプリン嬢 30ヶ国
素粒子 30ヶ国
極道(ヤクザ)な月 10ヶ国以上
Bad Traffic「黒竜江から来た警部」 8ヶ国
イングリッシュローズィズ 37ヶ国語100ヶ国
トム・ラノワ 12ヶ国語以上
バトルフィールド・アース 12ヶ国
スティーグ・ラーソン推理・探偵小説三部作 25ヶ国
白夜の森 36ヶ国語
酔どれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行 十数ヶ国
ロバート・ラドラム 32ヶ国
ポール・オースター 20数ヶ国
ムーミン・シリーズ 40ヶ国語
ダレン・シャン 30言語37ヶ国
ミレニアム 40ヶ国
ジャン・フィリップ・トゥーサン 20ヶ国
食べて、祈って、恋をして 40ヶ国以上
オスカーとルシンダ 13ヶ国語
薔薇の名前 30数ヶ国語
ヘニング・マンケル 35ヶ国以上の言語
チャールズ・ブコウスキー 数十ヶ国
アイスウィンド・サーガ 世界15ヶ国語
ダ・ヴィンチ・コード 30数ヶ国語
眠りの兄弟 25ヶ国
小さな中国のお針子 30ヶ国
GONE WITH THE WIND 37ヶ国語
Karin Fossum 16ヶ国語
ナルニア国物語 29ヶ国語
チョコレート工場の秘密 32ヶ国語
ハリー・ポッター 67ヶ国語
指輪物語 25ヶ国
ライオンボーイ 34ヶ国
それにしても、『おっぱいとトラクター』って何よ。ちょっと読んでみたい。
2010年12月26日日曜日
世にもはしたない話3
前回、前々回の続き。
蓮實重彥氏はこんなだれでも思いつくような批判はわざわざしていないが、内田氏は村上春樹の小説が世界で売れていることと、その小説が名作であることとを混同している。
『指輪物語』の例を引くまでもなく、売れていることと名作であることは何の関連もない。内田氏は、優れた小説のランキングは世界で売れている順だとでも言うのだろうか。
内田氏は「蓮實は村上を罵倒する前に、どうして『表層批評宣言』が世界各国語で訳されて、世界各国から続々と「蓮實フォロワー」が輩出してこないのか、その理由についてせめて三分ほど考察してもよかったのではないか。」などと昔のブログで言っていたようだが(http://blog.tatsuru.com/archives/000407.php)、こんなもの3分どころか3秒考える必要もない。村上作品の方が読みやすく、読んで楽しいからである。蓮實重彥氏の本は難解で、また大部分の人にとっては読んで面白くない。ただそれだけのことである。私も村上春樹の小説は好きだが、「優れている」と思って読んでいるわけではない。だいたい、小説と文芸批評の読者数は全然違うでしょう。
ちなみに「蓮實フォロワー」の語が使用されているのは故意か偶然か分からぬが、日本の表層文化論の領域で蓮實重彥氏の影響力は絶大で、「立教ヌーベルバーグ」は言うに及ばず、まさに蓮實フォロワーが続々と輩出されてきている。せいぜい村上春樹が読めて蓮實重彥氏の文章は難しくて読めない(ネットで見る限り、内田ファンは蓮實氏他批評家の小難しい文章[レベルを落とした福田和也や小谷野敦を除く]など読んだことのないような人ばかりである)程度の読者相手にブログの使いまわしの文章を本にして売りつけている者がそこまで偉そうに見下してよい相手ではないと思うのだが。
蓮實重彥氏はこんなだれでも思いつくような批判はわざわざしていないが、内田氏は村上春樹の小説が世界で売れていることと、その小説が名作であることとを混同している。
『指輪物語』の例を引くまでもなく、売れていることと名作であることは何の関連もない。内田氏は、優れた小説のランキングは世界で売れている順だとでも言うのだろうか。
内田氏は「蓮實は村上を罵倒する前に、どうして『表層批評宣言』が世界各国語で訳されて、世界各国から続々と「蓮實フォロワー」が輩出してこないのか、その理由についてせめて三分ほど考察してもよかったのではないか。」などと昔のブログで言っていたようだが(http://blog.tatsuru.com/archives/000407.php)、こんなもの3分どころか3秒考える必要もない。村上作品の方が読みやすく、読んで楽しいからである。蓮實重彥氏の本は難解で、また大部分の人にとっては読んで面白くない。ただそれだけのことである。私も村上春樹の小説は好きだが、「優れている」と思って読んでいるわけではない。だいたい、小説と文芸批評の読者数は全然違うでしょう。
ちなみに「蓮實フォロワー」の語が使用されているのは故意か偶然か分からぬが、日本の表層文化論の領域で蓮實重彥氏の影響力は絶大で、「立教ヌーベルバーグ」は言うに及ばず、まさに蓮實フォロワーが続々と輩出されてきている。せいぜい村上春樹が読めて蓮實重彥氏の文章は難しくて読めない(ネットで見る限り、内田ファンは蓮實氏他批評家の小難しい文章[レベルを落とした福田和也や小谷野敦を除く]など読んだことのないような人ばかりである)程度の読者相手にブログの使いまわしの文章を本にして売りつけている者がそこまで偉そうに見下してよい相手ではないと思うのだが。
世にもはしたない話2
以下前回の続き。
さて、前回、ノーベル文学賞にからんで蓮實重彥氏が内田樹氏からの批判(?)に反論(?)した話を書いた。(詳しい内容、というか真の内容[あまりの膨大な情報量に私ではまとめ切れません]は蓮實重彥『随想』の1をお読み頂きたい。)
で、いちおう内田樹のブログというものを確認しておこうと思ったのだが、読んでみたところ、これが、蓮實重彥氏が批判した部分以外にも問題が多い。前回引用部を、その前の部分も含め引用しつつ考察してみよう。
引用元は、ここ。
ここでの「無視」は明らかに、批評家は村上春樹を肯定も否定も全くしない、という文字通りの意味である。「村上春樹を組織的に無視してきたことの説明が立たないから、書きようがないのである」、とわざわざ言っているからである。蓮實重彥はせめて評価はしているから見識がある、というのである。
しかし言うまでもなく、批評家は(村上春樹のノーベル賞受賞の予定コメント依頼に対してはともかく)村上春樹を無視などしていない。肯定・否定双方あると思うが、こぞって批評の対象にはしているのである。
内田本人も明らかに言いすぎと思ったらしく、5日後に再度ブログ記事をアップした。
あ~、「無視」してるかどうかが、「評価」してるかどうかに変わっっちゃってる!!
「自前の文学理論にあてはめてすぱすぱと作品の良否を裁定し、それで説明できない文学的事象は『無視する』というのなら、批評家の仕事は楽である」とまで言ってたのに、いつの間にか、良否の裁定はしてることにすり替えちゃった。
それから、他にもおかしな部分がある。内田氏ブログに戻ろう。
純文学の月刊誌の実売部数など知らないが、↑これはいかにも俗耳に入りやすい議論であり、実際誰も読んでいないというなら言った者勝ちなのだが(頭脳プレイ!!)、実際そんなことがあるものか!! 少なくとも、蓮實氏などは映画評論を通じて世界で勝負している。むしろフランスやアメリカの批評理論の直輸入すぎると批判されているくらいであろう。
そもそも、内田氏は偉そうに批評家の批判などしているが、批評家の論文など読んですらいない。
例えば、蓮實氏のいう「小説」と「国語」の問題は、蓮實氏の初期の著作『反=日本語論』から既に登場している。その問題系を要約すれば(本当は要約できないが、無理に言えば)、小説は近代国民国家の成立に際し、国語というものを確定するという役割を果たし、これによって国民国家の統合に加担した、という暗黒の歴史を持っている、そして、そんな文学形態の成立と同時にそのような役割に違和感を覚えたごく少数の優れた作家が、それを内側から食い破るような作品を残した、という問題意識である。(村上春樹の小説はこのような問題意識が余りにも希薄であり、評価できない、というのが蓮實氏の村上評である。・・・そうすると、その帰結として、村上春樹の小説は、常に国民国家=権力の側に与することになる、という点で、読むこと自体が反動的である、ということになるのではないかと思われる。実際、小説を読むことの反動性に鈍感であってはならないというような話が、『絶対批評宣言』の『男流文学論』の批評の項で書かれていたと記憶する。)
ところが、内田氏はそういう点を全く踏まえていない(知らないはず)。
以下は、松浦寿輝と川村湊が村上春樹の小説には日本近代文学の記憶の厚みがなく、土地も血も匂わない、と述べた部分に対する批判であり、内田氏の無知ぶりが垣間見える。
http://blog.tatsuru.com/archives/001433.php
これだけではちょっとわかりづらいかもしれないが、AとBの会話の部分は、松浦氏と川村氏の対談中、世界を東京に、日本を世田谷に変えたパロディ(のつもり)である。
要するに、松浦氏・川村氏は村上春樹には日本近代文学の記憶の重みがないなどと言っているが、世界の中の一地域であるに過ぎない「日本」と、例えばインドの違いにこだわるのは、世田谷区と目黒区の違いにこだわるのと同じで下らない、というのが内田氏の主張なのである。
上に述べたところでもうお分かりだろうが、「世田谷近代文学の記憶の厚み」はジョークでも、「日本近代文学の厚み」はジョークにはならない。前者には「国語」の問題がないのに対し、後者にはあるからだ。この両者の差は安易に「構造的に」還元できないのである。言うまでもなく、松浦寿輝と川村湊が「日本近代文学の厚み」について語るとき、上に述べたような「国語」の問題は、完全に議論の前提となっている。これは、おそらく文芸誌で文芸批評をするような批評家の(賛成反対はともかく)常識なのであろう(おそらく蓮實重彥著『反=日本語論』を読んでいない批評家はいないし、また同様の問題意識を持つ著作・著者も少なからずあると思われるからである。)
そうだとすると、内田氏が、現代の批評家は「身内相手の『内輪の符丁』」でものを語っている云々と批判するのも、単なる勉強不足で前提知識が不足している内田には批評家の書いていることの意味がよくわからない、ということに過ぎないのかもしれない。勉強不足に気づきすらせず他人を批判するとは、これまた「はしたない」議論ではある。
この項続く。
さて、前回、ノーベル文学賞にからんで蓮實重彥氏が内田樹氏からの批判(?)に反論(?)した話を書いた。(詳しい内容、というか真の内容[あまりの膨大な情報量に私ではまとめ切れません]は蓮實重彥『随想』の1をお読み頂きたい。)
で、いちおう内田樹のブログというものを確認しておこうと思ったのだが、読んでみたところ、これが、蓮實重彥氏が批判した部分以外にも問題が多い。前回引用部を、その前の部分も含め引用しつつ考察してみよう。
引用元は、ここ。
私のような門外漢に依頼がくるのは、批評家たちの多くがこの件についてのコメントをいやがるからである。
加藤典洋さんのように、これまで村上文学の世界性について長期的に考えてきた批評家以外は、村上春樹を組織的に無視してきたことの説明が立たないから、書きようがないのである。
だが、説明がつかないから黙っているというのでは批評家の筋目が通るまい。
批評家というのは「説明できないこと」にひきつけられる知性のことではないのか。
自前の文学理論にあてはめてすぱすぱと作品の良否を裁定し、それで説明できない文学的事象は「無視する」というのなら、批評家の仕事は楽である。
だが、そんな仕事を敬意をもって見つめる人はどこにもいないだろう。
蓮實重彦は村上文学を単なる高度消費社会のファッショナブルな商品文学にすぎず、これを読んでいい気分になっている読者は「詐欺」にかかっているというきびしい評価を下してきた。
私は蓮實の評価に同意しないが、これはこれでひとつの見識であると思う。
ここでの「無視」は明らかに、批評家は村上春樹を肯定も否定も全くしない、という文字通りの意味である。「村上春樹を組織的に無視してきたことの説明が立たないから、書きようがないのである」、とわざわざ言っているからである。蓮實重彥はせめて評価はしているから見識がある、というのである。
しかし言うまでもなく、批評家は(村上春樹のノーベル賞受賞の予定コメント依頼に対してはともかく)村上春樹を無視などしていない。肯定・否定双方あると思うが、こぞって批評の対象にはしているのである。
内田本人も明らかに言いすぎと思ったらしく、5日後に再度ブログ記事をアップした。
日本の批評家は村上春樹を評価していないと書いたら、以前『B學界』の編集長だったO川さんからメールを頂いて、村上春樹を評価している批評家はたくさんいますよと名前を教えていただいた。
「三浦雅士、清水良典、石原千秋、川村湊、藤井省三、鈴村和成、風丸良彦、荒川洋治、川本三郎(特に初期において、現在は批判的)、柴田元幸、沼野充義、和田忠彦、芳川泰久氏、ほかに若い批評家、学者は無数」ということだそうですので、先日のブログのコメントは訂正させていただきます。
あ~、「無視」してるかどうかが、「評価」してるかどうかに変わっっちゃってる!!
「自前の文学理論にあてはめてすぱすぱと作品の良否を裁定し、それで説明できない文学的事象は『無視する』というのなら、批評家の仕事は楽である」とまで言ってたのに、いつの間にか、良否の裁定はしてることにすり替えちゃった。
それから、他にもおかしな部分がある。内田氏ブログに戻ろう。
私は村上春樹にはぜひノーベル文学賞を受賞して欲しいと切望しているが、それは一ファンであるというだけの理由によるのではなく、この出来事をきっかけに日本の批評家たちにおのれの「ローカリティ」にいいかげん気づいて欲しいからである。
純文学の月刊誌の実売部数は3000部から5000部である。
この媒体の書き手が想定している読者は編集者と同業者と、将来編集者か作家か批評家になりたいと思っている諸君だけである。
そのような身内相手の「内輪の符丁」で書くことに批評家たちはあまりに慣れすぎてはいないか。
純文学の月刊誌の実売部数など知らないが、↑これはいかにも俗耳に入りやすい議論であり、実際誰も読んでいないというなら言った者勝ちなのだが(頭脳プレイ!!)、実際そんなことがあるものか!! 少なくとも、蓮實氏などは映画評論を通じて世界で勝負している。むしろフランスやアメリカの批評理論の直輸入すぎると批判されているくらいであろう。
そもそも、内田氏は偉そうに批評家の批判などしているが、批評家の論文など読んですらいない。
例えば、蓮實氏のいう「小説」と「国語」の問題は、蓮實氏の初期の著作『反=日本語論』から既に登場している。その問題系を要約すれば(本当は要約できないが、無理に言えば)、小説は近代国民国家の成立に際し、国語というものを確定するという役割を果たし、これによって国民国家の統合に加担した、という暗黒の歴史を持っている、そして、そんな文学形態の成立と同時にそのような役割に違和感を覚えたごく少数の優れた作家が、それを内側から食い破るような作品を残した、という問題意識である。(村上春樹の小説はこのような問題意識が余りにも希薄であり、評価できない、というのが蓮實氏の村上評である。・・・そうすると、その帰結として、村上春樹の小説は、常に国民国家=権力の側に与することになる、という点で、読むこと自体が反動的である、ということになるのではないかと思われる。実際、小説を読むことの反動性に鈍感であってはならないというような話が、『絶対批評宣言』の『男流文学論』の批評の項で書かれていたと記憶する。)
ところが、内田氏はそういう点を全く踏まえていない(知らないはず)。
以下は、松浦寿輝と川村湊が村上春樹の小説には日本近代文学の記憶の厚みがなく、土地も血も匂わない、と述べた部分に対する批判であり、内田氏の無知ぶりが垣間見える。
http://blog.tatsuru.com/archives/001433.php
たしかに、ウェストファリア条約以来、地政学上の方便で引かれた国境線の「こちら」と「あちら」では「土地や血の匂い」方がいくぶんか違うというのは事実だろう。
だが、その「違い」に固執することと、行政上の方便で引かれた「県境」の「こちら」と「あちら」での差違にもこだわりを示ことや、「自分の身内」と「よそもの」の差違にこだわることの間にはどのような質的差違があるのだろうか。
例えば、次のような会話をあなたはまじめに読む気になるだろうか?
A でも、これはマスターキーのような文学だと思った。どの錠前も開くから、東京中の人を引きつける。しかし、世田谷近代文学の記憶の厚みがなく、不意にどこからともなくやってきた小説という感じ。
B 目黒区の大学院生たちも、違和感がない、と言っていた。
奇妙な会話だ。
しかし、批評家たちがしゃべっているのは構造的には「そういうこと」である。
なぜ、「世田谷近代文学の記憶の厚み」はジョークになるのに、「日本近代文学の厚み」はジョークにならないのか?
これだけではちょっとわかりづらいかもしれないが、AとBの会話の部分は、松浦氏と川村氏の対談中、世界を東京に、日本を世田谷に変えたパロディ(のつもり)である。
要するに、松浦氏・川村氏は村上春樹には日本近代文学の記憶の重みがないなどと言っているが、世界の中の一地域であるに過ぎない「日本」と、例えばインドの違いにこだわるのは、世田谷区と目黒区の違いにこだわるのと同じで下らない、というのが内田氏の主張なのである。
上に述べたところでもうお分かりだろうが、「世田谷近代文学の記憶の厚み」はジョークでも、「日本近代文学の厚み」はジョークにはならない。前者には「国語」の問題がないのに対し、後者にはあるからだ。この両者の差は安易に「構造的に」還元できないのである。言うまでもなく、松浦寿輝と川村湊が「日本近代文学の厚み」について語るとき、上に述べたような「国語」の問題は、完全に議論の前提となっている。これは、おそらく文芸誌で文芸批評をするような批評家の(賛成反対はともかく)常識なのであろう(おそらく蓮實重彥著『反=日本語論』を読んでいない批評家はいないし、また同様の問題意識を持つ著作・著者も少なからずあると思われるからである。)
そうだとすると、内田氏が、現代の批評家は「身内相手の『内輪の符丁』」でものを語っている云々と批判するのも、単なる勉強不足で前提知識が不足している内田には批評家の書いていることの意味がよくわからない、ということに過ぎないのかもしれない。勉強不足に気づきすらせず他人を批判するとは、これまた「はしたない」議論ではある。
この項続く。
2010年12月25日土曜日
世にもはしたない話1
蓮實重彥『随想』を読んだ。
「1 文学の国籍をめぐる
はしたない議論の
あれこれについて」
は、まずこの題の「はしたない」がお上品で面白い。『凡庸さについてお話させていただきます』というのもあったな。(この『随想』には自分の新華族の出自からして、下層階級について書かれた樋口一葉の「十三夜」を、優れた作品と思いながらも、語る資格がないのではないかと考えていた話(こう書くと馬鹿馬鹿しく思うかも知れませんが、実際には、祖母のエピソードと「十三夜」の記述との連関について具体的な理由が書かれています)も出てきます。)
それはともかく、ここで「はしたない」人の筆頭に挙げられているのは、自分と同国籍の者がノーベル文学賞を取ること(または取らないこと)に対し、あからさまに希望・喜び(失望・落胆)を露わにする人々である。
2008年に同文学賞を受賞したル・クレジオ(フランス人)がモーリシャス出身であることを捉えて「半分は英国人」と書いたタイムズ紙の記者、「フランス文化の凋落」との見方を否定する快挙とするフランスの首相、物理学賞を取った南部陽一郎(米国籍)を当初日本人として報じた日本のマスコミや、日本国籍喪失を「もったいない」として国籍法の改正を検討し始めたという日本の政府与党などが挙げられている。
さらに批判はアメリカの作家を十把一絡げに否定するスウェーデン・アカデミー事務局長や、ル・クレジオの名すら知らなかったとあられもなく述べてしまったロサンジェルス・タイムズのスタッフ・ライターに及び、「日本人の特技であった」「あまりに孤立し、島国的な偏狭さ」(スウェーデン・アカデミー事務局長自身の言葉)は「どうやら日本人の特技ではなくなろうとしている」と著者は一旦結論づける。
この後、ル・クレジオはクロード・シモン(過去同様にノーベル文学賞を取ったフランス人作家)ほど優れてはいないが、文学賞など作品の文学的な価値の評価の基準たりうるとは思っていないから、一応優れた作家であるル・クレジオであろうが、川端であろうが村上春樹であろうが、誰が受賞しようともそれに反対などしないと話は続いていく。
さて、まったくもっておっしゃるとおりの議論であるが、ここまでは(蓮實氏はともかく、このブログにとっては)前振りである。
ここで唐突に(そう見えないように周到に叙述されているが)話は内田樹のブログの話になる。そこにこう書いてあるというのだ。
(上の箇所は、村上春樹ノーベル文学賞受賞のコメントの予定稿をS,K,Yの三新聞から求められた、という前振りに続く部分である。)
内田樹からすれば、自分のようなチンピラのブログごときを御大が気に留めるとは思わなかったのだろうが、「あるブログにそう書かれていたと教えられ」て読んだ内容がよほど気に障ったのか、蓮實氏はわざわざ反論している。
この内田氏のブログに対する蓮實氏の、
「この書き手の夢があっさりついえさったいま、この頓珍漢な文章に律儀に答えることはあるまいが、」
とのキツーイ前置きとともに始まる批判をだいたいまとめれば、次のとおりである。
・別に受賞に反対しない。(理由上述)
・内田の敬意などいらない。
・村上春樹を評価できないのは、「たかだか『近代』の発明にすぎない『国語』を自明の前提として書きつつある自分への懐疑の念が、この作家にはあまりにも希薄だ」から。「高度消費社会のファッショナブルな商品文学」などという「通俗的な理由で」否定しているのではない。
・ル・クレジオが今年受賞するのは周知の事実だった。そんな情報収集能力のない程度の低い記者に「適当にあしらわれているという屈辱感がまるで感じられない」。
・ノーベル賞の「受賞によって、『村上文学の世界性』が証明されるなどと、本気で思っている大学の教師がいるのだろうか。やれやれ。」
まあ、最初の、別に受賞に反対しないのに、という点は、内田も、
村上春樹が受賞した際に「スウェーデン・アカデミー・・・もバカばかりである」と
(言えるものなら)言ってみろ、(言えないだろう、)
と挑発しているだけで、
「反対しろ」
とまでは言っていないので、いささか被害妄想的だが、内田の真意はおそらく「反対しろ」ということなのだろうから、大した違いはあるまい。
いずれにしろ、万一村上春樹がノーベル賞を取ったときに蓮實氏がコメントを求められたら、たいした作家ではない、と自論を述べるのは目に見えている。そもそも、ノーベル賞受賞者の批判は、内田氏にとってはとんでもないことなのだろうが、大した賞ではないと考える人も結構多いはずだ(佐藤栄作が平和賞を受賞して以来、特にそうだろう。大江健三郎の文学賞受賞の際にも、実力を否定した人はいなかったと思うが、「戦後民主主義」とか、記念講演を批判した人は結構いたと記憶している)。
なお、蓮實氏ははっきり書いていないが、内田は受賞コメントの予定稿の中で「『村上春樹のノーベル文学賞受賞』というような日本文壇をあげてことほぐべき事件」と述べて、村上春樹がノーベル賞を取る=日本の文壇(日本人?)はこれを祝うべきということに一点の疑問も抱いていない。まさに蓮實氏言うところの「あまりに孤立し、島国的な偏狭さ」に陥った、「はしたない」議論を展開していると言えよう。
この項続く。
「1 文学の国籍をめぐる
はしたない議論の
あれこれについて」
は、まずこの題の「はしたない」がお上品で面白い。『凡庸さについてお話させていただきます』というのもあったな。(この『随想』には自分の新華族の出自からして、下層階級について書かれた樋口一葉の「十三夜」を、優れた作品と思いながらも、語る資格がないのではないかと考えていた話(こう書くと馬鹿馬鹿しく思うかも知れませんが、実際には、祖母のエピソードと「十三夜」の記述との連関について具体的な理由が書かれています)も出てきます。)
それはともかく、ここで「はしたない」人の筆頭に挙げられているのは、自分と同国籍の者がノーベル文学賞を取ること(または取らないこと)に対し、あからさまに希望・喜び(失望・落胆)を露わにする人々である。
2008年に同文学賞を受賞したル・クレジオ(フランス人)がモーリシャス出身であることを捉えて「半分は英国人」と書いたタイムズ紙の記者、「フランス文化の凋落」との見方を否定する快挙とするフランスの首相、物理学賞を取った南部陽一郎(米国籍)を当初日本人として報じた日本のマスコミや、日本国籍喪失を「もったいない」として国籍法の改正を検討し始めたという日本の政府与党などが挙げられている。
さらに批判はアメリカの作家を十把一絡げに否定するスウェーデン・アカデミー事務局長や、ル・クレジオの名すら知らなかったとあられもなく述べてしまったロサンジェルス・タイムズのスタッフ・ライターに及び、「日本人の特技であった」「あまりに孤立し、島国的な偏狭さ」(スウェーデン・アカデミー事務局長自身の言葉)は「どうやら日本人の特技ではなくなろうとしている」と著者は一旦結論づける。
この後、ル・クレジオはクロード・シモン(過去同様にノーベル文学賞を取ったフランス人作家)ほど優れてはいないが、文学賞など作品の文学的な価値の評価の基準たりうるとは思っていないから、一応優れた作家であるル・クレジオであろうが、川端であろうが村上春樹であろうが、誰が受賞しようともそれに反対などしないと話は続いていく。
さて、まったくもっておっしゃるとおりの議論であるが、ここまでは(蓮實氏はともかく、このブログにとっては)前振りである。
ここで唐突に(そう見えないように周到に叙述されているが)話は内田樹のブログの話になる。そこにこう書いてあるというのだ。
「蓮實重彦は村上文学を単なる高度消費社会のファッショナブルな商品文学にすぎず、これを読んでいい気分になっている読者は『詐欺』にかかっているというきびしい評価を下してきた。http://blog.tatsuru.com/2008/10/
私は蓮實の評価に同意しないが、これはこれでひとつの見識であると思う。
だが、その見識に自信があり、発言に責任を取る気があるなら、授賞に際しては『スウェーデン・アカデミーもまた詐欺に騙された。どいつもこいつもバカばかりである』ときっぱりコメントするのが筋目というものだろう。
私は蓮實がそうしたら、その気概に深い敬意を示す。」
(上の箇所は、村上春樹ノーベル文学賞受賞のコメントの予定稿をS,K,Yの三新聞から求められた、という前振りに続く部分である。)
内田樹からすれば、自分のようなチンピラのブログごときを御大が気に留めるとは思わなかったのだろうが、「あるブログにそう書かれていたと教えられ」て読んだ内容がよほど気に障ったのか、蓮實氏はわざわざ反論している。
この内田氏のブログに対する蓮實氏の、
「この書き手の夢があっさりついえさったいま、この頓珍漢な文章に律儀に答えることはあるまいが、」
とのキツーイ前置きとともに始まる批判をだいたいまとめれば、次のとおりである。
・別に受賞に反対しない。(理由上述)
・内田の敬意などいらない。
・村上春樹を評価できないのは、「たかだか『近代』の発明にすぎない『国語』を自明の前提として書きつつある自分への懐疑の念が、この作家にはあまりにも希薄だ」から。「高度消費社会のファッショナブルな商品文学」などという「通俗的な理由で」否定しているのではない。
・ル・クレジオが今年受賞するのは周知の事実だった。そんな情報収集能力のない程度の低い記者に「適当にあしらわれているという屈辱感がまるで感じられない」。
・ノーベル賞の「受賞によって、『村上文学の世界性』が証明されるなどと、本気で思っている大学の教師がいるのだろうか。やれやれ。」
まあ、最初の、別に受賞に反対しないのに、という点は、内田も、
村上春樹が受賞した際に「スウェーデン・アカデミー・・・もバカばかりである」と
(言えるものなら)言ってみろ、(言えないだろう、)
と挑発しているだけで、
「反対しろ」
とまでは言っていないので、いささか被害妄想的だが、内田の真意はおそらく「反対しろ」ということなのだろうから、大した違いはあるまい。
いずれにしろ、万一村上春樹がノーベル賞を取ったときに蓮實氏がコメントを求められたら、たいした作家ではない、と自論を述べるのは目に見えている。そもそも、ノーベル賞受賞者の批判は、内田氏にとってはとんでもないことなのだろうが、大した賞ではないと考える人も結構多いはずだ(佐藤栄作が平和賞を受賞して以来、特にそうだろう。大江健三郎の文学賞受賞の際にも、実力を否定した人はいなかったと思うが、「戦後民主主義」とか、記念講演を批判した人は結構いたと記憶している)。
なお、蓮實氏ははっきり書いていないが、内田は受賞コメントの予定稿の中で「『村上春樹のノーベル文学賞受賞』というような日本文壇をあげてことほぐべき事件」と述べて、村上春樹がノーベル賞を取る=日本の文壇(日本人?)はこれを祝うべきということに一点の疑問も抱いていない。まさに蓮實氏言うところの「あまりに孤立し、島国的な偏狭さ」に陥った、「はしたない」議論を展開していると言えよう。
この項続く。
2010年12月23日木曜日
祝 改行
さっきAKBINGOを見ていたら、クリスマスパーティーに誘う美人メールコンテストをやっていましたが、
前田敦子のメールが、鬼のように改行してて、ウケました。
メールも
改行
し
ま
く
り
なのね
あっちゃん
美人メールって、ロンドンハーツでやってなかったっけ。
関係ありませんが、この前秋元康のドキュメントをテレビでやってましたが、AKBメンバー初のソロシンガーシングルデビューが決まったとのことで、板野智美がレコーディングしてました。そうなんだ・・・
AKBはなんとなく口パクが多いような、そしてメインボーカルがいるような気がしてました。
もしいるとすれば、当然大島優子、前田敦子、高橋みなみ、といったところかと思いましたが・・・板野智美ちゃんだったの?
追記 その後正月のyoutube三昧を経て、AKB48は意外にも(ごめんなさい)みんなでちゃんと歌っていることが判明しました。普段低音ボイスの麻里子様も、甘い高音ボイスでアイドル・ソングをソロで熱唱なさっておりました。もっと聞き込んでいけば誰が歌っているか分かってくるのかなあ。
それで思い出したが、私はジャニーズのグループの歌は、初めて聴いた時とか、どのグループが歌っているのかよくわからない(長瀬君が一人で歌うTOKIOの曲と、KINKI KIDSの曲--剛君のビブラートで一発でわかる--は除く)。が、それを昔女の子に言ったら、「全然違うよ」と怒られた。皆さんはどうですか?
前田敦子のメールが、鬼のように改行してて、ウケました。
メールも
改行
し
ま
く
り
なのね
あっちゃん
美人メールって、ロンドンハーツでやってなかったっけ。
関係ありませんが、この前秋元康のドキュメントをテレビでやってましたが、AKBメンバー初のソロシンガーシングルデビューが決まったとのことで、板野智美がレコーディングしてました。そうなんだ・・・
AKBはなんとなく口パクが多いような、そしてメインボーカルがいるような気がしてました。
もしいるとすれば、当然大島優子、前田敦子、高橋みなみ、といったところかと思いましたが・・・板野智美ちゃんだったの?
追記 その後正月のyoutube三昧を経て、AKB48は意外にも(ごめんなさい)みんなでちゃんと歌っていることが判明しました。普段低音ボイスの麻里子様も、甘い高音ボイスでアイドル・ソングをソロで熱唱なさっておりました。もっと聞き込んでいけば誰が歌っているか分かってくるのかなあ。
それで思い出したが、私はジャニーズのグループの歌は、初めて聴いた時とか、どのグループが歌っているのかよくわからない(長瀬君が一人で歌うTOKIOの曲と、KINKI KIDSの曲--剛君のビブラートで一発でわかる--は除く)。が、それを昔女の子に言ったら、「全然違うよ」と怒られた。皆さんはどうですか?
草原の零度
もう1つだけ。映画版「ノルウェイの森」と小説版の大きな違いは、京都郊外の療養所近くの草原の体感温度だ。
小説では、暖かな、のどかな空間であるのに対して、映画版では、強風が吹き荒れたり(そこで手コキしてもらう)、朝露で濡れそぼっていたり(そこを薄ら寒いシャツ一枚で延々歩き回り、普段穏やかな直子がキレる)、沼のようになっていたり、雪が積もっている(そこで咥えてもらう)。何かと寒いのだ。これは、療養所の室内の温かさ、緑とのラブシーンの快適さ(夏の室内でのどこか涼しげなキスシーンはもちろん、雪の中の愛の告白シーンは、柔らかく抱き合う中にどこか暖かさを感じさせるのだ)との対比なのかもしれないが、その厳密な意図は、今のところよく分からない。
小説では、暖かな、のどかな空間であるのに対して、映画版では、強風が吹き荒れたり(そこで手コキしてもらう)、朝露で濡れそぼっていたり(そこを薄ら寒いシャツ一枚で延々歩き回り、普段穏やかな直子がキレる)、沼のようになっていたり、雪が積もっている(そこで咥えてもらう)。何かと寒いのだ。これは、療養所の室内の温かさ、緑とのラブシーンの快適さ(夏の室内でのどこか涼しげなキスシーンはもちろん、雪の中の愛の告白シーンは、柔らかく抱き合う中にどこか暖かさを感じさせるのだ)との対比なのかもしれないが、その厳密な意図は、今のところよく分からない。
人生の教師
「ノルウェイの森」には、素敵な彼女を持ちながら大学生で70人斬りを達成したという永沢という男が出てくる。主人公のワタナベは、永沢の彼女であるハツミさんの自殺後、一度も永沢に会っていない、と言う。なぜ永沢を毛嫌いするのか。
それは、近親憎悪である。直子がいながら緑を愛したワタナベくん、直子は自殺・・・。永沢と同じじゃんか。
ある意味では、永沢の性的遍歴は、「複数の女を愛するのもアリだよ」というメッセージとなって、後のワタナベの行動に影響を与えているのである。そのせいで結局直子を失い精神の奈落の底に落ちたワタナベが、永沢を憎むのも当然なのかもしれない。
死に向かう直子を止められなかったワタナベ、という読みをしているようでは、人の罪深さが分かってないですな。あ、えらそー。
それは、近親憎悪である。直子がいながら緑を愛したワタナベくん、直子は自殺・・・。永沢と同じじゃんか。
ある意味では、永沢の性的遍歴は、「複数の女を愛するのもアリだよ」というメッセージとなって、後のワタナベの行動に影響を与えているのである。そのせいで結局直子を失い精神の奈落の底に落ちたワタナベが、永沢を憎むのも当然なのかもしれない。
死に向かう直子を止められなかったワタナベ、という読みをしているようでは、人の罪深さが分かってないですな。あ、えらそー。
Dr.アン・ユンの鏡
映画『ノルウェイの森』で意外だったのは、ヒロイン役のキャスティング。
菊池凛子が清純っぽい直子、水原希子が元気な緑。普通に考えたら、逆じゃね?
でも、これと逆だと小説そのまんまだからね。
逆にしたのはわざとのような気もする。小説では直子はいつも髪留めをしてるようなんですが、映画では緑がいつも髪留めしてるんですね。(ちなみに緑の短髪も、それほど短髪でない。)
それにしても希子ちゃんかわいいね。怒ったときも微笑んでいる緑、監督の演出だそうですが、なんと魅力的なんでしょう!!松山ワタナベもころっと参るわけです。
演出と言えば、映画では緑は非常に穏やかにしゃべる。
で、なんでこういうキャスティングになったかなんですが、原作だと緑は超短髪のハッとするような美人で、しゃべりもとてもハキハキしている。
おそらく、実写でこれをやると、超短髪にした米倉涼子になる。どうです?萎えませんか?私は萎えます。
菊池凛子が清純っぽい直子、水原希子が元気な緑。普通に考えたら、逆じゃね?
でも、これと逆だと小説そのまんまだからね。
逆にしたのはわざとのような気もする。小説では直子はいつも髪留めをしてるようなんですが、映画では緑がいつも髪留めしてるんですね。(ちなみに緑の短髪も、それほど短髪でない。)
それにしても希子ちゃんかわいいね。怒ったときも微笑んでいる緑、監督の演出だそうですが、なんと魅力的なんでしょう!!松山ワタナベもころっと参るわけです。
演出と言えば、映画では緑は非常に穏やかにしゃべる。
で、なんでこういうキャスティングになったかなんですが、原作だと緑は超短髪のハッとするような美人で、しゃべりもとてもハキハキしている。
おそらく、実写でこれをやると、超短髪にした米倉涼子になる。どうです?萎えませんか?私は萎えます。
今週の第一位!! 「バーレスク」 (by 黒柳 & 久米)
この1週間で映画を4本見た。「ゲーマー」、「ノルウェイの森」、「ロビン・フッド」、「バーレスク」。
スペクタクルSFアクション大作、日本の純文学をフランス人監督が映画化、巨匠のコスチュームプレイ、人気歌手主演のミュージカル・・・ 映画には全てがある。
それぞれ良かったけど、映画ファンなら「ロビン・フッド」なのかな~。でも、意外にに「バーレスク」が一番良かったりする。他愛もない話なんだけどね。監督の映画への愛が伝わってくる。スタンリー・トゥッチ、やけに老けたなあ。メイク?
「ノルウェイの森」は、小説ではわかりづらかった緑との恋と直子の死の関連が露わに(緑に愛を告白した次のカットが・・・さすがに「ええっ」!!!)
あ、これも読んでね。
http://choitomemorandum-karadajoubu.blogspot.com/2010_09_01_archive.html
「ゲーマー」は、最初の10分でもう度肝を抜かれるでしょう。エンターテイメントなんですが、「ハート・ロッカー」みたいなヒリヒリ感が凄い!戦争シーンも凄いが、バイクでの逃走シーンとかも凄い映像だ!!
「ロビン・フッド」は、さすがのリドリー・スコット監督。戦争シーンのスペクタクルは圧倒的です。彼みたいに全てを撮り尽くした監督がたどり着くのが、ああいうシーンなのかも知れないですね。キングダム・オブ・ヘブンでは足りなかったんでしょうか。リドリーの作品は、エンタテイメントとしても完成している。「エイリアン」の昔から、ストーリー自体は俗っぽいと言っても過言ではない。それでもやっぱり、明らかに芸術なんですよね。
そして「バーレスク」。
これぞ映画なんじゃないでしょうか。あるシーンで、ああ、来るな、と分かっていたにもかかわらず、不覚にも鳥肌が立ちました。これはマストだ!!!
スペクタクルSFアクション大作、日本の純文学をフランス人監督が映画化、巨匠のコスチュームプレイ、人気歌手主演のミュージカル・・・ 映画には全てがある。
それぞれ良かったけど、映画ファンなら「ロビン・フッド」なのかな~。でも、意外にに「バーレスク」が一番良かったりする。他愛もない話なんだけどね。監督の映画への愛が伝わってくる。スタンリー・トゥッチ、やけに老けたなあ。メイク?
「ノルウェイの森」は、小説ではわかりづらかった緑との恋と直子の死の関連が露わに(緑に愛を告白した次のカットが・・・さすがに「ええっ」!!!)
あ、これも読んでね。
http://choitomemorandum-karadajoubu.blogspot.com/2010_09_01_archive.html
「ゲーマー」は、最初の10分でもう度肝を抜かれるでしょう。エンターテイメントなんですが、「ハート・ロッカー」みたいなヒリヒリ感が凄い!戦争シーンも凄いが、バイクでの逃走シーンとかも凄い映像だ!!
「ロビン・フッド」は、さすがのリドリー・スコット監督。戦争シーンのスペクタクルは圧倒的です。彼みたいに全てを撮り尽くした監督がたどり着くのが、ああいうシーンなのかも知れないですね。キングダム・オブ・ヘブンでは足りなかったんでしょうか。リドリーの作品は、エンタテイメントとしても完成している。「エイリアン」の昔から、ストーリー自体は俗っぽいと言っても過言ではない。それでもやっぱり、明らかに芸術なんですよね。
そして「バーレスク」。
これぞ映画なんじゃないでしょうか。あるシーンで、ああ、来るな、と分かっていたにもかかわらず、不覚にも鳥肌が立ちました。これはマストだ!!!
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