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2009年10月31日土曜日

江戸学に学ぶべきこと

 10月27日産経新聞に「ちょっと江戸まで」という法政大学田中優子教授のエッセイが載っている。
「江戸時代を知ることにどういう意味があるのか、私たちの近現代は何を乗り越えたのか、あるいは何を克服しそこなったのか、とりわけ、何を捨て何を失ったのか-私は江戸文化を研究しながら、その問いを持ち続けている。」
 歴史に学ぶのは大切なことだ。しかし、単なる歴史学者が歴史から何を学ぶかまで考えてしまうとおかしなことになる場合がある。歴史に没頭する(学者はそうあるべきだが)あまり、現在のことをあまり知らないからだが、場合によっては専門とする国、地域の贔屓の引き倒しで、もっとめちゃくちゃな(非)論理をとなえる人もいる。

 田中エッセイによれば、現代は不安の時代だ。

「江戸時代に驚いてばかりはいられなくなった。いったん江戸時代側に立って現代を眺めてみると、それもまた驚きの連続である。食料自給率39%という数字は多く見積もっての話で、飼料や種子や加工食品の原料のことを考えに入れると、米以外はほとんど自給できなくなっている。気候変動、テロ、伝染病、戦争、何が起きても日本人は飢餓に陥る可能性がある。江戸人から見ると、なんと不安な国なのだろうか。子供の貧困は進み、いざと、いうときの受け皿となっていた共同体はもはやない。子供さえ孤立し、親からも他人からも助けてもらえない。江戸人から見ると、何と過酷な国だろうか。」

 突っ込みどころが多すぎる。
 まず、田中先生は知らないかもしれないが、江戸時代には享保、天明、天保の三大飢饉をはじめ、いくつもの大飢饉が起きた。人々は飢餓でバタバタ死んだ。安心の時代でなかったのは確かだ。
 これも田中先生は知らないことだろうが、江戸時代、日本は鎖国をしていた。よって、食料自給率は100%である。自給率なぞ何の意味もない。むしろ、国内で米が取れないにもかかわらず、外国から輸入できず、不足分の口は死ぬしかなかったのだ。かわいそうに。
 
 ついでに言えば、鎖国をしたのは、キリスト教の流入が時の為政者に不都合だったためであり、民衆の意思と無関係に強制したものである。江戸時代の文化とは関係ない。むしろ、江戸時代の文化が、そのような法制度の結果生まれたものだ。今の時代にそういう文化を当てはめようとしても、木に竹を接ぐの類である。

 食料自給率に関する記載にも、大きな誤りがある。(長くなるので続く。)
 

2009年10月5日月曜日

契約書って、ないといけないの? No way!!

 鳩山内閣は日本郵政の西川社長の自発的辞任を求めている。財界はこれに反発しており、また西川社長も恐らく唯々諾々とは従わないだろう。どうしても辞めさせるとなれば、財務大臣が株主として臨時株主総会開催を請求し、西川社長の取締役解任議案を提出した上で可決し取締役の座から引きずり降ろす(自動的に代表取締役も解任となる)ことになろう。この場合、さすがに民間会社の社長を国がクビにするのはいかがなものか、との批判は免れまい。そもそも、会社法で言うところの正当な(解任)事由があるかは微妙、というか恐らくないので、不当解任となって、西川社長が損害賠償請求訴訟を提起すれば勝訴=任期満了までの取締役報酬相当額の支払いが認められるだろう。これでは「国民共有の財産」(原口総務相)である日本郵政の財産が目減りし、批判は更に避けられない。(そこまで西川社長がやるかはわかりませんが。)
 そこで、応援団が現内閣を援護射撃すべく、日本郵政の不祥事を掘り起こしてきた。すなわち、昨日10月4日付け朝日新聞朝刊(一面!)の、「日本郵政、広告発注に契約書なし 博報堂に368億円」の記事である。これがまた酷い記事だ。(私は新聞ウォッチャーではないのだが。何でこんなに酷いのが多いのか。)
 記事によれば、日本郵政は民営・分社化前は案件ごとに入札で広告代理店を選んでいたが、民営・分社化後「企業イメージの統一性を図る」ことを目的として、特定の1社に一括発注する方式に変更することとし、「企画提案コンペ」を開き、大手広告会社4社の中から博報堂を選定したが、一括発注の独占契約につき契約書類を一切取り交わしていなかった。契約額は07年度は、博報堂との独占契約で約146億円、08年度は約222億円(朝日新聞は、郵政公社時代は06年度が電通:約51億円、博報堂:約19億円、大広:約2億円という内部資料を入手したという)。総務省はずさんな手続きだと問題視している、そうな。

「民主党政権が公約に掲げる郵政事業の見直し作業に影響を与えそうだ。」(西川社長の首も危うくなったぞ、とは書いていない。書かなくてもわかるでしょ、といったところか。)
 問題があると思うのは次の各部分。

問題箇所1:「通常、包括契約時に交わす覚書や合意書には、契約期間、双方が履行する義務、契約を解除する場合の条項などが記される。双方の理解のずれや、これに起因するトラブルを回避するほか、取引の透明性を担保する目的もある。」

問題点:契約書に理解のずれ、トラブル回避の目的があるというのは正しい。しかし、はっきりさせないほうが良い場合もある。天下の博報堂ともなれば、法務部門も充実しているはずだし、顧問弁護士も超一流どころをそろえているはずだ。きっちり契約書を、となれば、日本郵政の言いなりの契約書になるとは限らない。むしろ不利となった可能性もあるのだ。そもそも、日本郵政はその後博報堂の子会社で郵便割引制度の悪用事件が発覚したため、この一括発注契約を解除しているのだが、包括契約を書面化したもの(基本契約書)できっちり解除権発生の場合を場合分けしていたら、(子会社が郵便制度を悪用したときは解除できる、なんて入れたはずもないので)きっと解除できなかったはずだ。(厳密に言えば、契約書がなければ解除可能というものでもないが、ここはやはり曖昧だからこそ、相手に引け目があることもあり、エイヤで解除できたと考えられる。)結ばなくて良かったではないか。
 しかも、この手の包括取引では必ず契約書を締結するという実務もない。この記事には、そもそもこのような契約自体少ない、と書いてあるのだ。(ついでに言えばこの記事ではめったに見かけない契約であることがいかにも悪いことのように書いてあるが、みんながやらないことをやったら悪いなどとは到底言えないことである。トータルコンセプトで広告して欲しいという日本郵政側の説明は、そんなにおかしなものではないではないか。)
 とにかく、個々の状況では包括契約など締結しない方が得な場合もあるのであり、締結しなかったからといって即批判するのはおかしいのである。
 しかし、たとえ損でも文書化はしなければいけないのでは?と思う人もいるかもしれないが、そんな決まり=法令はない。実際、業界にもよるのだが(広告業界など、そうである可能性が高いと思うが)実務上、契約書面、特に複数契約にまたがって適用される基本契約書が締結されないケースも多い。つまり、(これがこの記事および原口大臣のコメントの最大の問題点だが、)包括取引に関して契約書を締結しないこと自体は、別に法律上違法ではないはずなのだ。
 原口総務相は「日本郵政に内部監査機能や法令順守への姿勢が欠如している疑いがあ」る、と述べたそうだが、どこが法令違反なのか、何法の何条に違反しているのか、明確に述べて頂きたいものだ。
 なお、内部監査の観点からは、合意内容は書面化するのが望ましい。私も、結論として今回の場合包括契約書がない方が良い、と言いたいわけではない。ただ、まるで本件が日本郵政の不祥事だというような報道(もはや真の意味での「報道」を遠く離れていると思うが)はおかしいというのである。もっとも、今回は包括契約に従って締結される各個別の契約では契約書を作成していたとあるから、内部統制上も問題とまでは言えないだろう。 
 さらに、「取引の透明性を担保する目的もある。」とあるが、契約書の解説本とかで、こんなの見たことないぞ。いわゆる独自の見解ってやつでは?

問題箇所2:「会社法でも業務の適正を確保するため、契約書類の保存や管理を要請している。」

問題点:この部分は、一番酷い。憤りを通り越して呆れる。
 会社法施行規則100条1項1号では、取締役に「取締役の職務の執行に係る情報の保存及び管理に関する体制」を整えることを要求している。そして、この「取締役の職務の執行に係る情報」には契約書類も入るだろう。しかし、この規定が求めているのは、「(契約書の)保存や管理」である。「作成」とはどこにも書いていない。よって、今回契約書を作ることは、会社法上要求などされていないのだ。実際、記事中引用箇所も「保存や整理」としか書いていない。なのになぜ「会社法『でも』」となるのか。この一文は、読んだ人に、なんとなく日本郵政の行為が会社法に違反していると思わせるために書かれている(おそらく95%くらいの人がそう思ったであろう。新聞の文章など、厳密には読まないものだ)。もしかすると、筆者は「いや、会社法違反とは書いていないしそう読ませる意図もない。実際記事には会社法上契約書「作成」義務がある、とは書いていないではないか」と反論するかもしれない。しかしそれは嘘だ。なぜなら、そうであれば、この一文が書かれる意味がないからである。契約書の保存管理義務と、契約書不作成の間に、どんな関係があるのか。いかにも卑怯な書き方である。

問題箇所3:「グループ子会社の幹部は『イベントや広告内容の質に疑義があっても業者を変更することができなかった。契約額が割高になっていた疑念もぬぐえない』と話している。」

問題点:まず、各個別契約が割高になるかどうかは、包括契約書を締結するかどうかとは無関係だ。契約書があっても、割高になる可能性はある。よって、この談話は、本件と何の関係もない。ただ、なんとなく日本郵政けしからん、という雰囲気をかもし出すだけのために入れられている。卑怯なり、朝日。
 次に、博報堂はトータルコンセプトという付加価値を付けていたのだから、仮に個々の契約額が割高になったとしても、当然である。
 また、4社でコンペをやっているという点から、選定に際してはきちんと手続きが踏まれていると言える。もし出来レースだとでも言うのなら、その証拠を示すべきだ。
 さらに、これが一番問題だと思うのだが、この「グループ子会社の幹部」なる者の意見が公正なものか、非常に疑わしい。旧郵便局のスタッフは、大部分が民営化反対と考えられるからである。「疑念もぬぐえない」って、どういう根拠なのか、それを確かめもせず記事にするというのは、非常に問題ではないか。だいたい、包括契約に関して書面化していないこととか、公社時代の広告宣伝費の内部資料とか、誰がリークしているのか(むろん現体制に反対の者である)。しかも政権交代直後のこの時期に、とっくに解除した契約の契約書の有無が急に問題になるとは、いかにも不自然である。この情報漏洩の方が、内部統制上よほど問題ではないか。

 日本郵政の広報部門は、「『業務に支障はなく、問題ないと考えている。しかし今後は、この発注方式を採用すべきか否かや、契約書類の作成についても社内で検討したい』としている。」とのこと。大変真っ当なコメントである。

 ちなみに、明けて10月5日、毎日新聞が朝日と同様の立場から本件を伝えている。
 9月13日の社説で
「西川氏が政治任用であることは明らかだ。政権が代わり、郵政民営化が抜本的に見直されようとしているわけで、その責務を終えたことは、西川氏自身がよく理解しているはずだ。」
とまで述べた毎日であるから、政権ヨイショのスタンスも当然と言えば当然であるが、その主張は更に訳がわからない。
「グループ各社に対しては明文に基づかないまま博報堂への発注を義務付けていた形で、同グループの法令順守上の問題点がまた一つ浮上した。」
 明文に基づかないまま、とあるが、契約書は博報堂との間に締結するものであり、それとグループ会社に博報堂との契約を指示することとは全く関係ない。
 知らない人もいるかも知れないが、口頭契約も契約である。日本郵政が博報堂との間で「グループ会社にも博報堂を使わせる」との義務を負うことを約せば、当然それを履行する義務が生じるのだ。
 それとも、やはり内部統制上の問題を指摘しているのだろうか。どう問題なのか良くわからないが、日本郵政も包括発注契約書を締結していないだけで、稟議書の類は作成していると思うので、全く紙に残すことなく広告発注の基準を取り決めているというわけではない。とにかくよくわからない一文である。
 そして、またも「法令順守上の問題点」・・・。どういう不遵守があるのか、書けるものならちゃんと書いてみて欲しいものだ。

 さらにちなみに、朝日は10月5日も日本郵政の問題点を、これまた一面で報じていた。第3種郵便物の審査・監査が杜撰だったとのこと。朝日、必死ですな。日経は・・・今にいたるまでこの(契約書の)件無視。アホか、というところなんでしょう。正しい・・・。

2009年10月4日日曜日

押しかけコンテンツのその後

 私のau携帯に勝手に入ってきたbook playerの押しかけコンテンツは、その後勝手に消えた。そしてまた違う漫画が同様にサンプルでいくつか勝手に入ってきて、そして消えていった。book playerを全く見ない日もあったため、その全てを把握しているわけではない。というか、最初に入ってきたもの以外、何の漫画だったか覚えていない。
 そして、今現在、私の携帯には何も入っていない。ここ何日か入って来ていないようだ。何でかな。他にも苦情が出て勝手に人の携帯にサンプルをダウンロードさせるサービス(?)は中止になったのだろうか。ま、私はやめるべきだと思いますが。

2009年10月3日土曜日

お帽子被りたくない幼稚園生の言葉

 9月25日読売新聞一面の「編集手帳」に、変な文章が載っている。
 森繁久弥が古川ロッパに座敷で自分の座る場所を尋ねたところ、お前の座ったところが下座だと言われた、というどうでもいい前振りから、鳩山首相が国連演説で拍手喝采を浴びていい気になっているのは「夏の馬鹿は奥に座る」の類であり、鳩山首相がおだてられていい気になって、日本が一人我慢をするのはかなわない、というのが大意である。「夏の馬鹿は奥に座る」とは、通常上座とされている座敷の奥側は、夏は暑いので誰も座りたがらず、それに気づかない馬鹿がおだてられて座る羽目になる、という趣旨の格言のようである。
 この一文は次の後で締め括られている。
「呼吸困難で倒れてしまえば、上座も下座もない。」
 この最後の一文は、一見して変だ。暑いのを我慢する話で、「呼吸困難で倒れ」る、は唐突ではないか。普通、暑いのを我慢したら、「熱中症で」倒れる、のではないか。
 しかし、この「編集手帳」が「熱中症で倒れてしまえば、上座も下座もない。」で終わるのは、絶対にまずいのだ。なぜか。
 この駄文が批判している鳩山演説は、ご存知のとおり、地球温暖化防止策を日本が積極的に行う、という内容のものだったからである。つまり、熱中症で倒れてしまっては問題だ、と言ってしまっては、「じゃあ、米中がついてこようがこまいが(この文章では、米中が縁側で涼んでいるのに日本だけ我慢するのはおかしいと鳩山演説を非難している)、温暖化防止策を歯を食いしばって頑張るべきなのでは?鳩山演説は正しいのでは?」と言われてしまう、つまり比喩が筆者の主張を自ら否定してしまうからである。
 もっとも、「熱中症」を「呼吸困難」に言い換えたところで、「暑くて倒れる」という点は同じなのだから、やっぱり温暖化防止積極策提案演説を批判する比喩としては不適切だ。
 私が思うに、この一文は最初は「熱中症」で締め括られていて、後で「温暖化防止のための提案を批判するんだから、熱中症云々では論旨と比喩にねじれが生じておかしい」という指摘があったんじゃないかな。そうだとすると、「熱中症」を「呼吸困難」に言い換えるだけでなく、そもそも夏の奥座敷云々のたとえ話自体を変えるべきだったんじゃないかと思うが、締め切り間近で全体を変える暇がなかったのか(奥座敷云々が使えないと、最初の森繁の話も使えなくなるからね)、それとも森繁の話だか奥座敷の格言だかを、どうしても使いたかったのか。前者なら文筆業のプロ失格、後者ならけち臭い話で、どちらにしても、しょうもない・・・。
 なお、言うまでもないことだが、この「編集手帳」は、鳩山首相が、日本が義務を負う前提として、他の主要国が同様の義務を負うことを条件としていた点を故意に無視しているという点で、非常に問題がある。米中は縁側で涼んでいるのに日本だけ奥座敷で、という喩えは悪意に満ちた曲解だ。鳩山演説は、いわば、みんなが奥座敷で頑張るなら、私も頑張ります、という趣旨だからである。
 更に、米中が一緒にやらないなら、本当に地球温暖化防止策は「願い下げ」なのか、という根本的問題がある(この点は、既に京都議定書批准の際にも問題となった点である)。「○○ちゃんはお帽子かぶってないのに、なんで僕だけかぶらないといけないのー?ズルイよー」と言ってる間に○○ちゃんも僕も熱中症になってしまっては意味がないのではないか。米中他各国を死ぬ気で引きずりこむか、地球丸ごと熱中症(による呼吸困難?)で死ぬか、どちらかしかこの問題には選択肢がない。だからみんな大騒ぎしているんではないのか?
 読売が鳩(兄)嫌いなのは知っているが、こんな下らない駄文で混ぜっ返してるだけとは、情けない話だ。

2009年9月8日火曜日

押しかけコンテンツ

 昨日私の携帯auのブックライブラリに、かしましハウスでイングリッシュ!!という、秋月りすという人の書いた漫画の英語バージョンがいきなり入っていた!! ダウンロードした覚えないんだけど!と思いつつよく見ると、サンプルと書いてある。誰かが私の携帯にコンテンツを無理やり入れることができるのだろうか??繰り返すが、ダウンロードした覚えはない。読んでみると、なんと4コマ漫画を一話読んだだけで、続きはサイトから、ときた。なにこれ?フィッシングサイト?と思いつつ、ちょっとイラつきつつ、ウィンドウを閉じる。明けて本日、ブックライブラリを開くと、昨日のまま「かしまし・・・」のサンプルがライブラリの一番上に。昨日同様、いやそれ以上のイラつきを覚えつつ、削除を決定。メニュー画面を開く。確かここから削除できるはず・・・って、削除ボタンがアクティブにならない!!いろいろやってみたが、削除できない!!これはむかつく!!断水の時に思わずしてしまったウンコ以上の邪魔くささだ。


 私はこのような横暴な行為に、断固抗議します。


 そして私はここに宣言します。この送り主を絶対に突き止めるとともに、このような失礼かつ自分勝手な行為の根絶を図るため、その送り主の販売するコンテンツ、および、この秋月某の書いた漫画、さらに、この人の描いた漫画が載っている雑誌を一生買わないこととします(一人不買運動)。


 言っとくけど、仮にこのデータが何日か後に自動で消えたとしても(それはそれでムカつく。何自在に操っとんじゃ)、この決心は変えないからな!!

2009年9月5日土曜日

柳澤氏は二度死ぬ(おまけ)

 前々回のエントリーで引用した柳澤氏の講演内容に、明らかな誤りがひとつ。講演は2007年だから、2030年に20歳の人は、当時7、8歳ではない。当時は、というか、今でも、まだその人は生まれていない。これは柳澤氏の言い間違いのようである。「2030年に30歳」と言いたかったのであろう。まるで気がつかなかったという方、批判的に読むとは、これほどに難しいものである。 ・・・おあとがよろしいようで。

柳澤氏は二度死ぬ(終)

 また、かりに無意識において女性蔑視的であるとか、女性だけに少子化問題の責任を押し付けている、として、それだけで大臣辞任を求める根拠にはならないはず。あの時の柳澤批判は、そのような道理を押し潰す、まさにブルドーザーのごとき非論理、濁流、土石流であった。

 こんな、中途半端に昔の話をする理由は、この総選挙直前の政治報道のあり方に疑問を感じたからです。大敗を喫した現首相は、たしかに一国のトップたるにふさわしい人格の持ち主ではなかった。でも、そうだからと言って、あのような不公平、不公正な虚偽報道が許されるのか、私には疑問です。

今 いわゆる柳澤発言に思う -柳澤氏は二度死ぬ-

 静岡8区の柳澤伯夫氏が落選した。自民党惨敗ですから、政府の要職を歴任した柳澤氏が落選するということも、それほど驚きというわけではないでしょう。ないでしょうが、このニュースが気になるのは、この人の名を聞けば、2007年に起きた、「『女性は産む機械』発言」報道・騒動・デマ事件を思い出すからです。昔からマスコミは、気に入らない者がいれば、事実を捏造してでも批判してきたようですが(池田隼人元首相の、貧乏人は麦を食え発言とか)、私がリアルタイムで知っている一番典型的な例がこの事件でした。

柳澤伯夫講演「これからの年金・福祉・医療の展望について」より

 「今の女性が子供を一生の間に沢山・・・、あのー・・・、大体・・・この人口統計学ではですね、女性は15歳~50歳までが、まあ出産をして下さる年齢なんですが・・・15歳~50歳の人の数を勘定すると、もう大体分かるわけですね。それ以外産まれようがない。急激に・・・、男が産むことはできないわけですから・・・、特に今度我々が考えている2030年ということになりますと、その、30年に、例えば、まあ20歳になる人を考えるとですね、今幾つ・・・もう7、8歳になってなきゃいけないということなんです。生まれちゃってるんですよ、もう、30年のときに20歳で頑張って産むぞってやってくれる人は。そういうことで・・・、あとはじゃあ、産む機械っちゃあなんだけど、装置が、もう数が決まっちゃったと・・・、機械の数・・・、装置の数っちゃあなんだかもしれないけれども、そういう、決まっちゃったということになると、後は一つの・・・、ま・・・装置って言ってごめんなさいね。別に・・・、この産む役目の人が一人頭で頑張ってもらうしかないんですよね」

 これを見ればわかるとおり、カギ括弧は引用を表すのだから、

「女性は産む機械」

という表記自体が嘘である。柳澤氏はそんな発言はしていないのだ。しかし、ネットで検索してみて欲しい。柳澤発言について書いた文章は多いが、「女性は産む機械」と、いかにも柳澤氏がこういう発言をしたかのようにカギ括弧を付けた表記が大部分である。

 その筆者全員が、今も刻一刻と恥を晒している。マスコミを鵜呑みにした恥、柳澤氏の経歴から、どうせ女性蔑視的だろうとステレオタイプなものの見方をした恥、世間の声に流された恥・・・。

 少し気が利いている人は、柳澤発言に出てくる「機械」とか「装置」とかが、子を産む女性自体が少なくなるから当然新生児数も減る、ということを言うために使った比喩に過ぎないことに気づいていた。その人たちは、さすがに柳澤発言を無理やり「女何ぞ機械みたいなもんで人格など認める必要なし」という発言と読み替えるにはプライドが高すぎた。

 しかし、そういう人も、無理に柳澤氏を批判して辞任を要求する世論に実質同調した。曰く、女性の人格を認めていないから、機械とか装置とかいう比喩をつい無意識に使ってしまうのだ、曰く、機械云々はともかく、「女性が頑張るしかない」の部分は、少子化問題を女性の努力・我慢不足に矮小化するものだ
・・・。
 前者は、比喩が常に無意識を反映するという理論(俗流フロイト流精神分析?)自体に科学的な根拠がない以上、根拠のない批判である。後者は一見もっともであるが、単なる揚げ足取りにすぎない。柳澤の言う「頑張る」は、生殖可能者1個体当たりが(「一人頭」が)出産数を増やす、という意味だからである。それが、生殖可能者の個体数が少ないという状況下で新生児数を増やす唯一の方法だ、というのが発言の趣旨である。ついでに言えば、これを、きわめて単純な算数の問題ですよ、と強調するため、無機的なイメージで表現すべく、故意に「機械」という比喩を使ったわけである。

 その他、ともかく人々の気分を害したのになかなか謝らなかった、とか、なかなか発言を訂正しなかったいう点を批判した人もいたが、上記引用を見て欲しい。「なかなか」どころか、「機械」、「装置」と言った直後に「ごめんなさいね」と謝って、かつ「産む役目の人」と言い換えている。(続く)

2009年9月3日木曜日

こころ 私と先生とK 後編

『蓮實 ・・・気になるのはあの「私」の文体と、それから「先生」の文体の差異のなさなんです。あたかも「私」が先生になり代わって語っているかのように、ほとんど「先生」と「私」の文体に差異がないというところが、もう一つ、非常に気味が悪い。漱石がそんなこと気がついていないはずないと思う。気がついていないはずがないのに、いくつか文体上の特徴さえ拾い上げるくらいに、同じ言い回しをしている。/次の問題として、この作品には、少なくとも「私」という形で自分を指示する人物が二人存在するという事実が気になります。第一の人物は話者であり、第二の人物は話者に与えられた手紙に語られている物語の話者であるわけですね。それを、漱石は、ことによったら、どこかで融合させようというような意図さえあったかと思うほど、その二つの「私」の反応等は似ている。それがまた非常に薄気味悪い。・・・』(「『こヽろ』のかたち」 (対談 蓮實重彥 小森陽一 石原千秋) 漱石研究叢書 漱石を語る2 小森陽一・石原千秋編 161頁)

『小森 ・・・ある意味で「先生」の遺書にとりつかれてというか、「先生」のディスクールにのりうつられたかのようにして、「私」の書く行為が形成されている。これは何て言うんでしょう、文体を通して二人の「私」が一体化していくことになりますよね。「先生」は遺書によって永遠に「私」のディスクールを操作し続けるというか、支配し続けるというか、そういうかなり怖い事態が発生していることになります。/蓮實 ・・・(中略)・・・おそらく、フィクションというものは、「私」という一人称の主語が同じ作品に二つ出てきたら、似ざるを得ないという宿命を背負ってんじゃないかって気がするんですね。少なくても、ある種の近代小説の中で、明らかに帰属の違う「私」という言葉が書かれていても、形式的に類似せざるを得なくなっちゃうんじゃないか。 /小森 まさに「私」という一人称の支配力が作用しているわけですね。・・・』 (同上 166-167頁)

『蓮實 ・・・凡庸な人なら、Aの「私」とBの「私」はがらっと変えてしまう。しかし、変える必要がない。なぜならば、ここは抽象化された世界であって、人々は名前をほとんど持っていない・・・(中略)・・・むしろ構造に還元されたものなのであり、その背後に広がっている社会的な背景というのは、とりあえず、括弧にくくってしまう。で、時間的にも括弧にくくってしまう。実は時間的に一世代の違いがあるにもかかわらず、括弧にくくってしまう。とすると、この二つの人物は、どのような葛藤を演ずることになるのだろうかというような構造的な実験です。』 (同上 168-169頁)

最初の引用箇所の指摘がいかにも鋭いですが、やはり二番目の引用箇所の発想が秀逸ですよね。勉強になります。

2009年8月3日月曜日

こころ 私と先生とK

私のテクストと先生のテクストは同じ身振りで書かれている (記憶で引用。明日確かめよう)