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2009年9月3日木曜日

こころ 私と先生とK 後編

『蓮實 ・・・気になるのはあの「私」の文体と、それから「先生」の文体の差異のなさなんです。あたかも「私」が先生になり代わって語っているかのように、ほとんど「先生」と「私」の文体に差異がないというところが、もう一つ、非常に気味が悪い。漱石がそんなこと気がついていないはずないと思う。気がついていないはずがないのに、いくつか文体上の特徴さえ拾い上げるくらいに、同じ言い回しをしている。/次の問題として、この作品には、少なくとも「私」という形で自分を指示する人物が二人存在するという事実が気になります。第一の人物は話者であり、第二の人物は話者に与えられた手紙に語られている物語の話者であるわけですね。それを、漱石は、ことによったら、どこかで融合させようというような意図さえあったかと思うほど、その二つの「私」の反応等は似ている。それがまた非常に薄気味悪い。・・・』(「『こヽろ』のかたち」 (対談 蓮實重彥 小森陽一 石原千秋) 漱石研究叢書 漱石を語る2 小森陽一・石原千秋編 161頁)

『小森 ・・・ある意味で「先生」の遺書にとりつかれてというか、「先生」のディスクールにのりうつられたかのようにして、「私」の書く行為が形成されている。これは何て言うんでしょう、文体を通して二人の「私」が一体化していくことになりますよね。「先生」は遺書によって永遠に「私」のディスクールを操作し続けるというか、支配し続けるというか、そういうかなり怖い事態が発生していることになります。/蓮實 ・・・(中略)・・・おそらく、フィクションというものは、「私」という一人称の主語が同じ作品に二つ出てきたら、似ざるを得ないという宿命を背負ってんじゃないかって気がするんですね。少なくても、ある種の近代小説の中で、明らかに帰属の違う「私」という言葉が書かれていても、形式的に類似せざるを得なくなっちゃうんじゃないか。 /小森 まさに「私」という一人称の支配力が作用しているわけですね。・・・』 (同上 166-167頁)

『蓮實 ・・・凡庸な人なら、Aの「私」とBの「私」はがらっと変えてしまう。しかし、変える必要がない。なぜならば、ここは抽象化された世界であって、人々は名前をほとんど持っていない・・・(中略)・・・むしろ構造に還元されたものなのであり、その背後に広がっている社会的な背景というのは、とりあえず、括弧にくくってしまう。で、時間的にも括弧にくくってしまう。実は時間的に一世代の違いがあるにもかかわらず、括弧にくくってしまう。とすると、この二つの人物は、どのような葛藤を演ずることになるのだろうかというような構造的な実験です。』 (同上 168-169頁)

最初の引用箇所の指摘がいかにも鋭いですが、やはり二番目の引用箇所の発想が秀逸ですよね。勉強になります。

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