『小森 ・・・ある意味で「先生」の遺書にとりつかれてというか、「先生」のディスクールにのりうつられたかのようにして、「私」の書く行為が形成されている。これは何て言うんでしょう、文体を通して二人の「私」が一体化していくことになりますよね。「先生」は遺書によって永遠に「私」のディスクールを操作し続けるというか、支配し続けるというか、そういうかなり怖い事態が発生していることになります。/蓮實 ・・・(中略)・・・おそらく、フィクションというものは、「私」という一人称の主語が同じ作品に二つ出てきたら、似ざるを得ないという宿命を背負ってんじゃないかって気がするんですね。少なくても、ある種の近代小説の中で、明らかに帰属の違う「私」という言葉が書かれていても、形式的に類似せざるを得なくなっちゃうんじゃないか。 /小森 まさに「私」という一人称の支配力が作用しているわけですね。・・・』 (同上 166-167頁)
『蓮實 ・・・凡庸な人なら、Aの「私」とBの「私」はがらっと変えてしまう。しかし、変える必要がない。なぜならば、ここは抽象化された世界であって、人々は名前をほとんど持っていない・・・(中略)・・・むしろ構造に還元されたものなのであり、その背後に広がっている社会的な背景というのは、とりあえず、括弧にくくってしまう。で、時間的にも括弧にくくってしまう。実は時間的に一世代の違いがあるにもかかわらず、括弧にくくってしまう。とすると、この二つの人物は、どのような葛藤を演ずることになるのだろうかというような構造的な実験です。』 (同上 168-169頁)
最初の引用箇所の指摘がいかにも鋭いですが、やはり二番目の引用箇所の発想が秀逸ですよね。勉強になります。
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