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2009年9月8日火曜日

押しかけコンテンツ

 昨日私の携帯auのブックライブラリに、かしましハウスでイングリッシュ!!という、秋月りすという人の書いた漫画の英語バージョンがいきなり入っていた!! ダウンロードした覚えないんだけど!と思いつつよく見ると、サンプルと書いてある。誰かが私の携帯にコンテンツを無理やり入れることができるのだろうか??繰り返すが、ダウンロードした覚えはない。読んでみると、なんと4コマ漫画を一話読んだだけで、続きはサイトから、ときた。なにこれ?フィッシングサイト?と思いつつ、ちょっとイラつきつつ、ウィンドウを閉じる。明けて本日、ブックライブラリを開くと、昨日のまま「かしまし・・・」のサンプルがライブラリの一番上に。昨日同様、いやそれ以上のイラつきを覚えつつ、削除を決定。メニュー画面を開く。確かここから削除できるはず・・・って、削除ボタンがアクティブにならない!!いろいろやってみたが、削除できない!!これはむかつく!!断水の時に思わずしてしまったウンコ以上の邪魔くささだ。


 私はこのような横暴な行為に、断固抗議します。


 そして私はここに宣言します。この送り主を絶対に突き止めるとともに、このような失礼かつ自分勝手な行為の根絶を図るため、その送り主の販売するコンテンツ、および、この秋月某の書いた漫画、さらに、この人の描いた漫画が載っている雑誌を一生買わないこととします(一人不買運動)。


 言っとくけど、仮にこのデータが何日か後に自動で消えたとしても(それはそれでムカつく。何自在に操っとんじゃ)、この決心は変えないからな!!

2009年9月5日土曜日

柳澤氏は二度死ぬ(おまけ)

 前々回のエントリーで引用した柳澤氏の講演内容に、明らかな誤りがひとつ。講演は2007年だから、2030年に20歳の人は、当時7、8歳ではない。当時は、というか、今でも、まだその人は生まれていない。これは柳澤氏の言い間違いのようである。「2030年に30歳」と言いたかったのであろう。まるで気がつかなかったという方、批判的に読むとは、これほどに難しいものである。 ・・・おあとがよろしいようで。

柳澤氏は二度死ぬ(終)

 また、かりに無意識において女性蔑視的であるとか、女性だけに少子化問題の責任を押し付けている、として、それだけで大臣辞任を求める根拠にはならないはず。あの時の柳澤批判は、そのような道理を押し潰す、まさにブルドーザーのごとき非論理、濁流、土石流であった。

 こんな、中途半端に昔の話をする理由は、この総選挙直前の政治報道のあり方に疑問を感じたからです。大敗を喫した現首相は、たしかに一国のトップたるにふさわしい人格の持ち主ではなかった。でも、そうだからと言って、あのような不公平、不公正な虚偽報道が許されるのか、私には疑問です。

今 いわゆる柳澤発言に思う -柳澤氏は二度死ぬ-

 静岡8区の柳澤伯夫氏が落選した。自民党惨敗ですから、政府の要職を歴任した柳澤氏が落選するということも、それほど驚きというわけではないでしょう。ないでしょうが、このニュースが気になるのは、この人の名を聞けば、2007年に起きた、「『女性は産む機械』発言」報道・騒動・デマ事件を思い出すからです。昔からマスコミは、気に入らない者がいれば、事実を捏造してでも批判してきたようですが(池田隼人元首相の、貧乏人は麦を食え発言とか)、私がリアルタイムで知っている一番典型的な例がこの事件でした。

柳澤伯夫講演「これからの年金・福祉・医療の展望について」より

 「今の女性が子供を一生の間に沢山・・・、あのー・・・、大体・・・この人口統計学ではですね、女性は15歳~50歳までが、まあ出産をして下さる年齢なんですが・・・15歳~50歳の人の数を勘定すると、もう大体分かるわけですね。それ以外産まれようがない。急激に・・・、男が産むことはできないわけですから・・・、特に今度我々が考えている2030年ということになりますと、その、30年に、例えば、まあ20歳になる人を考えるとですね、今幾つ・・・もう7、8歳になってなきゃいけないということなんです。生まれちゃってるんですよ、もう、30年のときに20歳で頑張って産むぞってやってくれる人は。そういうことで・・・、あとはじゃあ、産む機械っちゃあなんだけど、装置が、もう数が決まっちゃったと・・・、機械の数・・・、装置の数っちゃあなんだかもしれないけれども、そういう、決まっちゃったということになると、後は一つの・・・、ま・・・装置って言ってごめんなさいね。別に・・・、この産む役目の人が一人頭で頑張ってもらうしかないんですよね」

 これを見ればわかるとおり、カギ括弧は引用を表すのだから、

「女性は産む機械」

という表記自体が嘘である。柳澤氏はそんな発言はしていないのだ。しかし、ネットで検索してみて欲しい。柳澤発言について書いた文章は多いが、「女性は産む機械」と、いかにも柳澤氏がこういう発言をしたかのようにカギ括弧を付けた表記が大部分である。

 その筆者全員が、今も刻一刻と恥を晒している。マスコミを鵜呑みにした恥、柳澤氏の経歴から、どうせ女性蔑視的だろうとステレオタイプなものの見方をした恥、世間の声に流された恥・・・。

 少し気が利いている人は、柳澤発言に出てくる「機械」とか「装置」とかが、子を産む女性自体が少なくなるから当然新生児数も減る、ということを言うために使った比喩に過ぎないことに気づいていた。その人たちは、さすがに柳澤発言を無理やり「女何ぞ機械みたいなもんで人格など認める必要なし」という発言と読み替えるにはプライドが高すぎた。

 しかし、そういう人も、無理に柳澤氏を批判して辞任を要求する世論に実質同調した。曰く、女性の人格を認めていないから、機械とか装置とかいう比喩をつい無意識に使ってしまうのだ、曰く、機械云々はともかく、「女性が頑張るしかない」の部分は、少子化問題を女性の努力・我慢不足に矮小化するものだ
・・・。
 前者は、比喩が常に無意識を反映するという理論(俗流フロイト流精神分析?)自体に科学的な根拠がない以上、根拠のない批判である。後者は一見もっともであるが、単なる揚げ足取りにすぎない。柳澤の言う「頑張る」は、生殖可能者1個体当たりが(「一人頭」が)出産数を増やす、という意味だからである。それが、生殖可能者の個体数が少ないという状況下で新生児数を増やす唯一の方法だ、というのが発言の趣旨である。ついでに言えば、これを、きわめて単純な算数の問題ですよ、と強調するため、無機的なイメージで表現すべく、故意に「機械」という比喩を使ったわけである。

 その他、ともかく人々の気分を害したのになかなか謝らなかった、とか、なかなか発言を訂正しなかったいう点を批判した人もいたが、上記引用を見て欲しい。「なかなか」どころか、「機械」、「装置」と言った直後に「ごめんなさいね」と謝って、かつ「産む役目の人」と言い換えている。(続く)

2009年9月3日木曜日

こころ 私と先生とK 後編

『蓮實 ・・・気になるのはあの「私」の文体と、それから「先生」の文体の差異のなさなんです。あたかも「私」が先生になり代わって語っているかのように、ほとんど「先生」と「私」の文体に差異がないというところが、もう一つ、非常に気味が悪い。漱石がそんなこと気がついていないはずないと思う。気がついていないはずがないのに、いくつか文体上の特徴さえ拾い上げるくらいに、同じ言い回しをしている。/次の問題として、この作品には、少なくとも「私」という形で自分を指示する人物が二人存在するという事実が気になります。第一の人物は話者であり、第二の人物は話者に与えられた手紙に語られている物語の話者であるわけですね。それを、漱石は、ことによったら、どこかで融合させようというような意図さえあったかと思うほど、その二つの「私」の反応等は似ている。それがまた非常に薄気味悪い。・・・』(「『こヽろ』のかたち」 (対談 蓮實重彥 小森陽一 石原千秋) 漱石研究叢書 漱石を語る2 小森陽一・石原千秋編 161頁)

『小森 ・・・ある意味で「先生」の遺書にとりつかれてというか、「先生」のディスクールにのりうつられたかのようにして、「私」の書く行為が形成されている。これは何て言うんでしょう、文体を通して二人の「私」が一体化していくことになりますよね。「先生」は遺書によって永遠に「私」のディスクールを操作し続けるというか、支配し続けるというか、そういうかなり怖い事態が発生していることになります。/蓮實 ・・・(中略)・・・おそらく、フィクションというものは、「私」という一人称の主語が同じ作品に二つ出てきたら、似ざるを得ないという宿命を背負ってんじゃないかって気がするんですね。少なくても、ある種の近代小説の中で、明らかに帰属の違う「私」という言葉が書かれていても、形式的に類似せざるを得なくなっちゃうんじゃないか。 /小森 まさに「私」という一人称の支配力が作用しているわけですね。・・・』 (同上 166-167頁)

『蓮實 ・・・凡庸な人なら、Aの「私」とBの「私」はがらっと変えてしまう。しかし、変える必要がない。なぜならば、ここは抽象化された世界であって、人々は名前をほとんど持っていない・・・(中略)・・・むしろ構造に還元されたものなのであり、その背後に広がっている社会的な背景というのは、とりあえず、括弧にくくってしまう。で、時間的にも括弧にくくってしまう。実は時間的に一世代の違いがあるにもかかわらず、括弧にくくってしまう。とすると、この二つの人物は、どのような葛藤を演ずることになるのだろうかというような構造的な実験です。』 (同上 168-169頁)

最初の引用箇所の指摘がいかにも鋭いですが、やはり二番目の引用箇所の発想が秀逸ですよね。勉強になります。