今日DVDで「Vフォーヴェンデッタ」を観た。
それでふと思ったんだけど、今アメリカでは、オバマ大統領が経済的自由に対する規制を拡大する政策を採っていることに対し、非アメリカ的だとして反対する勢力が拡大している。のだが、彼らは、ジョージ・W・ブッシュ大統領が愛国者法とかを成立させて市民のプライバシーに対する政府の制限を拡大したり、米国外にある米軍基地でテロリストの容疑がかかった者に拷問したりしていた時、当時の政府の政策に反対したのだろうか。ブッシュ反対のティーパーティー運動などあったのか?
彼らの主張にはどうも矛盾があるようである。
アメリカ保守層の左派政策への嫌悪感や、もっと露骨に言ってしまえば黒人大統領に対する人種差別などがこの問題の背後に横たわっているのだろう。
ただ、それとは別に、この件には、日本とも共通する点がある。
自由権については、「二重の基準」を適用すべきというのが、日本憲法学界の通説と言ってよい。精神的自由権には「明白かつ現在の危険」とか「より制限的でない他の選び得る手段」などの基準により、自由権の制限に対する合憲性の判断は厳格に行うべきである一方、経済的自由権については、「合理性の基準」など、基本的に立法・行政の判断を尊重すべきである、というのである。
しかし、例えば法令違憲になった過去8件を見てみると、
1. 尊属殺人重罰規定 2. 薬事法距離制限規定 3. 衆議院議員定数配分規定
4. 衆議院議員定数配分規定 その2 5. 森林法共有林分割制限規定
6. 郵便法免責規定 7. 在外邦人の選挙権制限 8. 非嫡出子の国籍取得制限
平等権関係・・・1、3、4、7、8
経済的自由・・・2、5、6、
というわけで、経済的自由権は三度も違憲判決が出されたにもかかわらず、精神的自由権の制限は、違憲とされたことはない。
つまり、「白いアメリカ人」同様、経済的自由の侵害は厳しく批判するが、精神的自由の侵害には寛容なのだ。
思えば、精神的自由は、なくても生物としての人間は生きていけるものである。精神的自由は、強く抑制されれば、あきらめられてしまうことも多いのだ。
他方経済的自由は、金の問題である。侵害されて黙ってはいられないという人が多い。従って裁判所も一定の配慮をせざるを得ないのだ。
しかし、なくても生きていけるものだからこそ、それに命を掛ける姿は尊く、美しいのではないか。「Vフォーヴェンデッタ」にはそれが描かれている。
少なくともアメリカでは、「Vフォーヴェンデッタ」のような映画が作られている。日本で商業的意味でトップクラスの映画作家(「Vフォーヴェンデッタ」の製作は、「マトリックス」をヒットさせたウォシャウスキー兄弟)が、こんな映画を作れるだろうか。
なお、エンドロールで流れるストーンズの「Street Fighting Man」は、
Hey! think the time is right for a palace revolution
と革命を呼びかける(フランスはパリの五月革命への共感を示した歌と言われている)歌。