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2011年1月9日日曜日

煉瓦の壁ほど急な山腹に、蝙蝠のように吸い付いた人間

「何故働かない」
「何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ。」
『それから』(夏目漱石)

 大人になって読むと、青臭い議論で笑ってしまう、と言うはたやすい。
 しかし、この小説には、日糖事件という、明治末期当時の疑獄事件-資本主義の醜悪な側面-も描かれている。鼻で嗤って済まそうとするのは、その読者が資本主義の悪に鈍感になってしまっているだけなのかもしれない。

 ちなみにこの後、働かない主人公の主張はこう続く。

「もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金を拵(こし)らへて、貧乏震ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、何時になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許(ばか)りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行(おくゆき)を削つて、一等国丈の間口(まぐち)を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。其影響はみんな我々個人の上に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日(こんにち)の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。精神の困憊(こんぱい)と、身体の衰弱とは不幸にして伴なつてゐる。のみならず、道徳の敗退も一所に来てゐる。日本国中何所を見渡したつて、輝いてる断面は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其間(あひだ)に立つて僕一人が、何と云つたつて、何を為たつて、仕様がないさ。僕は元来怠けものだ。いや、君と一所に往来してゐる時分から怠けものだ。あの時は強ひて景気をつけてゐたから、君には有為多望の様に見えたんだらう。そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば遣(や)る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性に打ち勝つ丈の刺激も亦いくらでも出来て来るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、君の所謂|有《あり》の儘の世界を、有の儘で受取つて、其(その)中(うち)僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで外(ほか)の人を、此方(こつち)の考へ通りにするなんて、到底出来た話ぢやありやしないもの――」

 今の日本人で、これを嘲笑できる人がいるだろうか。

2010年12月27日月曜日

世にもはしたない話 おまけ(風車小屋へ!)

 内田樹のブログでは、蓮實重彥の批判を受けた直後の2009年の10月には村上春樹ノーベル文学賞受賞(注 実際には受賞してないからね)に対するコメントの予定稿をブログで公表しなかったようであるが、2010年にはまた予定稿の公表を復活させていた。懲りないねー。

 ただし、2010年のブログではもう蓮實批判の部分はなくなった、どころか、「日本の批評家は村上春樹を無視している/評価していない」云々という記載もなくなっている。具体的には、このような書き方になった。

「村上春樹の世界性を担保しているのは、彼が『グローバル化した社会に共通する先端的な風俗や感性』のようなものを達者な筆致で描いているからではない。」

 2008年の内田ブログでは、蓮實重彥氏が、村上春樹はグローバル化した社会に共通する先端的な風俗や感性のようなものを達者な筆致で描いているに過ぎない、と批判している(がそれには賛成できない)と書いてあった。ところが以前述べたとおり、蓮實氏に、自分はそんなことは言っていない、と反論されてしまったため、今回は批判の対象がぼかしてある。他の批評家の名前にすげ替えていないところを見ると、まあ要するに誰もそんなこと言っていなかったんでしょう。でも、誰も言ってないのに批判するって、ドンキホーテの風車小屋への進軍みたいですね。頑張るなあ。

世にもはしたない話 番外編

 世界の文学がどの程度翻訳されているのかネットで検索してみた。
 以下は翻訳が出ている国の数なのか言語の数なのか曖昧なものもあるし、作家単位・作品単位が混在しているし、また最新情報かもわからないのだが、まあ大体のことは分かるだろう。

 内田樹氏の理屈によれば、『ノルウェイの森』(村上春樹)は『砂の女』(安部公房)より名作で、『ハリーポッター』より駄作だ、ということになりますね(世にもはしたない話1~3参照)。ハハハハハハ。

安部公房 30ヶ国以上
砂の女 20数ヶ国語
小川洋子 10ヶ国以上
ノルウェイの森 36ヶ国/40ヶ国語 など諸説あり
ハーレクイン社の書籍 25言語94ヶ国
おっぱいとトラクター 37ヶ国
素数たちの孤独 30ヶ国
解剖学者 33ヶ国
悪魔とプリン嬢 30ヶ国
素粒子 30ヶ国
極道(ヤクザ)な月 10ヶ国以上
Bad Traffic「黒竜江から来た警部」 8ヶ国
イングリッシュローズィズ 37ヶ国語100ヶ国
トム・ラノワ 12ヶ国語以上
バトルフィールド・アース 12ヶ国
スティーグ・ラーソン推理・探偵小説三部作 25ヶ国
白夜の森 36ヶ国語
酔どれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行 十数ヶ国
ロバート・ラドラム 32ヶ国
ポール・オースター 20数ヶ国
ムーミン・シリーズ 40ヶ国語
ダレン・シャン 30言語37ヶ国
ミレニアム 40ヶ国
ジャン・フィリップ・トゥーサン 20ヶ国
食べて、祈って、恋をして 40ヶ国以上
オスカーとルシンダ 13ヶ国語
薔薇の名前 30数ヶ国語
ヘニング・マンケル 35ヶ国以上の言語
チャールズ・ブコウスキー 数十ヶ国
アイスウィンド・サーガ 世界15ヶ国語
ダ・ヴィンチ・コード 30数ヶ国語
眠りの兄弟 25ヶ国
小さな中国のお針子 30ヶ国
GONE WITH THE WIND 37ヶ国語
Karin Fossum 16ヶ国語
ナルニア国物語 29ヶ国語
チョコレート工場の秘密 32ヶ国語
ハリー・ポッター 67ヶ国語
指輪物語 25ヶ国
ライオンボーイ 34ヶ国


それにしても、『おっぱいとトラクター』って何よ。ちょっと読んでみたい。

2010年12月26日日曜日

世にもはしたない話3

 前回、前々回の続き。

 蓮實重彥氏はこんなだれでも思いつくような批判はわざわざしていないが、内田氏は村上春樹の小説が世界で売れていることと、その小説が名作であることとを混同している。
 『指輪物語』の例を引くまでもなく、売れていることと名作であることは何の関連もない。内田氏は、優れた小説のランキングは世界で売れている順だとでも言うのだろうか。

内田氏は「蓮實は村上を罵倒する前に、どうして『表層批評宣言』が世界各国語で訳されて、世界各国から続々と「蓮實フォロワー」が輩出してこないのか、その理由についてせめて三分ほど考察してもよかったのではないか。」などと昔のブログで言っていたようだが(http://blog.tatsuru.com/archives/000407.php)、こんなもの3分どころか3秒考える必要もない。村上作品の方が読みやすく、読んで楽しいからである。蓮實重彥氏の本は難解で、また大部分の人にとっては読んで面白くない。ただそれだけのことである。私も村上春樹の小説は好きだが、「優れている」と思って読んでいるわけではない。だいたい、小説と文芸批評の読者数は全然違うでしょう。
 ちなみに「蓮實フォロワー」の語が使用されているのは故意か偶然か分からぬが、日本の表層文化論の領域で蓮實重彥氏の影響力は絶大で、「立教ヌーベルバーグ」は言うに及ばず、まさに蓮實フォロワーが続々と輩出されてきている。せいぜい村上春樹が読めて蓮實重彥氏の文章は難しくて読めない(ネットで見る限り、内田ファンは蓮實氏他批評家の小難しい文章[レベルを落とした福田和也や小谷野敦を除く]など読んだことのないような人ばかりである)程度の読者相手にブログの使いまわしの文章を本にして売りつけている者がそこまで偉そうに見下してよい相手ではないと思うのだが。

世にもはしたない話2

以下前回の続き。

さて、前回、ノーベル文学賞にからんで蓮實重彥氏が内田樹氏からの批判(?)に反論(?)した話を書いた。(詳しい内容、というか真の内容[あまりの膨大な情報量に私ではまとめ切れません]は蓮實重彥『随想』の1をお読み頂きたい。)

で、いちおう内田樹のブログというものを確認しておこうと思ったのだが、読んでみたところ、これが、蓮實重彥氏が批判した部分以外にも問題が多い。前回引用部を、その前の部分も含め引用しつつ考察してみよう。
引用元は、ここ

私のような門外漢に依頼がくるのは、批評家たちの多くがこの件についてのコメントをいやがるからである。
加藤典洋さんのように、これまで村上文学の世界性について長期的に考えてきた批評家以外は、村上春樹を組織的に無視してきたことの説明が立たないから、書きようがないのである。
だが、説明がつかないから黙っているというのでは批評家の筋目が通るまい。
批評家というのは「説明できないこと」にひきつけられる知性のことではないのか。
自前の文学理論にあてはめてすぱすぱと作品の良否を裁定し、それで説明できない文学的事象は「無視する」というのなら、批評家の仕事は楽である。
だが、そんな仕事を敬意をもって見つめる人はどこにもいないだろう。
蓮實重彦は村上文学を単なる高度消費社会のファッショナブルな商品文学にすぎず、これを読んでいい気分になっている読者は「詐欺」にかかっているというきびしい評価を下してきた。
私は蓮實の評価に同意しないが、これはこれでひとつの見識であると思う。


ここでの「無視」は明らかに、批評家は村上春樹を肯定も否定も全くしない、という文字通りの意味である。「村上春樹を組織的に無視してきたことの説明が立たないから、書きようがないのである」、とわざわざ言っているからである。蓮實重彥はせめて評価はしているから見識がある、というのである。
しかし言うまでもなく、批評家は(村上春樹のノーベル賞受賞の予定コメント依頼に対してはともかく)村上春樹を無視などしていない。肯定・否定双方あると思うが、こぞって批評の対象にはしているのである。
内田本人も明らかに言いすぎと思ったらしく、5日後に再度ブログ記事をアップした。

日本の批評家は村上春樹を評価していないと書いたら、以前『B學界』の編集長だったO川さんからメールを頂いて、村上春樹を評価している批評家はたくさんいますよと名前を教えていただいた。
「三浦雅士、清水良典、石原千秋、川村湊、藤井省三、鈴村和成、風丸良彦、荒川洋治、川本三郎(特に初期において、現在は批判的)、柴田元幸、沼野充義、和田忠彦、芳川泰久氏、ほかに若い批評家、学者は無数」ということだそうですので、先日のブログのコメントは訂正させていただきます。

あ~、「無視」してるかどうかが、「評価」してるかどうかに変わっっちゃってる!!
「自前の文学理論にあてはめてすぱすぱと作品の良否を裁定し、それで説明できない文学的事象は『無視する』というのなら、批評家の仕事は楽である」とまで言ってたのに、いつの間にか、良否の裁定はしてることにすり替えちゃった。

それから、他にもおかしな部分がある。内田氏ブログに戻ろう。

私は村上春樹にはぜひノーベル文学賞を受賞して欲しいと切望しているが、それは一ファンであるというだけの理由によるのではなく、この出来事をきっかけに日本の批評家たちにおのれの「ローカリティ」にいいかげん気づいて欲しいからである。
純文学の月刊誌の実売部数は3000部から5000部である。
この媒体の書き手が想定している読者は編集者と同業者と、将来編集者か作家か批評家になりたいと思っている諸君だけである。
そのような身内相手の「内輪の符丁」で書くことに批評家たちはあまりに慣れすぎてはいないか。

純文学の月刊誌の実売部数など知らないが、↑これはいかにも俗耳に入りやすい議論であり、実際誰も読んでいないというなら言った者勝ちなのだが(頭脳プレイ!!)、実際そんなことがあるものか!! 少なくとも、蓮實氏などは映画評論を通じて世界で勝負している。むしろフランスやアメリカの批評理論の直輸入すぎると批判されているくらいであろう。

そもそも、内田氏は偉そうに批評家の批判などしているが、批評家の論文など読んですらいない。
例えば、蓮實氏のいう「小説」と「国語」の問題は、蓮實氏の初期の著作『反=日本語論』から既に登場している。その問題系を要約すれば(本当は要約できないが、無理に言えば)、小説は近代国民国家の成立に際し、国語というものを確定するという役割を果たし、これによって国民国家の統合に加担した、という暗黒の歴史を持っている、そして、そんな文学形態の成立と同時にそのような役割に違和感を覚えたごく少数の優れた作家が、それを内側から食い破るような作品を残した、という問題意識である。(村上春樹の小説はこのような問題意識が余りにも希薄であり、評価できない、というのが蓮實氏の村上評である。・・・そうすると、その帰結として、村上春樹の小説は、常に国民国家=権力の側に与することになる、という点で、読むこと自体が反動的である、ということになるのではないかと思われる。実際、小説を読むことの反動性に鈍感であってはならないというような話が、『絶対批評宣言』の『男流文学論』の批評の項で書かれていたと記憶する。)

ところが、内田氏はそういう点を全く踏まえていない(知らないはず)。
以下は、松浦寿輝と川村湊が村上春樹の小説には日本近代文学の記憶の厚みがなく、土地も血も匂わない、と述べた部分に対する批判であり、内田氏の無知ぶりが垣間見える。
http://blog.tatsuru.com/archives/001433.php
たしかに、ウェストファリア条約以来、地政学上の方便で引かれた国境線の「こちら」と「あちら」では「土地や血の匂い」方がいくぶんか違うというのは事実だろう。
だが、その「違い」に固執することと、行政上の方便で引かれた「県境」の「こちら」と「あちら」での差違にもこだわりを示ことや、「自分の身内」と「よそもの」の差違にこだわることの間にはどのような質的差違があるのだろうか。
例えば、次のような会話をあなたはまじめに読む気になるだろうか?
A でも、これはマスターキーのような文学だと思った。どの錠前も開くから、東京中の人を引きつける。しかし、世田谷近代文学の記憶の厚みがなく、不意にどこからともなくやってきた小説という感じ。
B 目黒区の大学院生たちも、違和感がない、と言っていた。
奇妙な会話だ。
しかし、批評家たちがしゃべっているのは構造的には「そういうこと」である。
なぜ、「世田谷近代文学の記憶の厚み」はジョークになるのに、「日本近代文学の厚み」はジョークにならないのか?

これだけではちょっとわかりづらいかもしれないが、AとBの会話の部分は、松浦氏と川村氏の対談中、世界を東京に、日本を世田谷に変えたパロディ(のつもり)である。
要するに、松浦氏・川村氏は村上春樹には日本近代文学の記憶の重みがないなどと言っているが、世界の中の一地域であるに過ぎない「日本」と、例えばインドの違いにこだわるのは、世田谷区と目黒区の違いにこだわるのと同じで下らない、というのが内田氏の主張なのである。
上に述べたところでもうお分かりだろうが、「世田谷近代文学の記憶の厚み」はジョークでも、「日本近代文学の厚み」はジョークにはならない。前者には「国語」の問題がないのに対し、後者にはあるからだ。この両者の差は安易に「構造的に」還元できないのである。言うまでもなく、松浦寿輝と川村湊が「日本近代文学の厚み」について語るとき、上に述べたような「国語」の問題は、完全に議論の前提となっている。これは、おそらく文芸誌で文芸批評をするような批評家の(賛成反対はともかく)常識なのであろう(おそらく蓮實重彥著『反=日本語論』を読んでいない批評家はいないし、また同様の問題意識を持つ著作・著者も少なからずあると思われるからである。)

そうだとすると、内田氏が、現代の批評家は「身内相手の『内輪の符丁』」でものを語っている云々と批判するのも、単なる勉強不足で前提知識が不足している内田には批評家の書いていることの意味がよくわからない、ということに過ぎないのかもしれない。勉強不足に気づきすらせず他人を批判するとは、これまた「はしたない」議論ではある。

この項続く。

2010年12月25日土曜日

世にもはしたない話1

 蓮實重彥『随想』を読んだ。
 「1 文学の国籍をめぐる
    はしたない議論の
    あれこれについて」
は、まずこの題の「はしたない」がお上品で面白い。『凡庸さについてお話させていただきます』というのもあったな。(この『随想』には自分の新華族の出自からして、下層階級について書かれた樋口一葉の「十三夜」を、優れた作品と思いながらも、語る資格がないのではないかと考えていた話(こう書くと馬鹿馬鹿しく思うかも知れませんが、実際には、祖母のエピソードと「十三夜」の記述との連関について具体的な理由が書かれています)も出てきます。)

 それはともかく、ここで「はしたない」人の筆頭に挙げられているのは、自分と同国籍の者がノーベル文学賞を取ること(または取らないこと)に対し、あからさまに希望・喜び(失望・落胆)を露わにする人々である。
 2008年に同文学賞を受賞したル・クレジオ(フランス人)がモーリシャス出身であることを捉えて「半分は英国人」と書いたタイムズ紙の記者、「フランス文化の凋落」との見方を否定する快挙とするフランスの首相、物理学賞を取った南部陽一郎(米国籍)を当初日本人として報じた日本のマスコミや、日本国籍喪失を「もったいない」として国籍法の改正を検討し始めたという日本の政府与党などが挙げられている。
 さらに批判はアメリカの作家を十把一絡げに否定するスウェーデン・アカデミー事務局長や、ル・クレジオの名すら知らなかったとあられもなく述べてしまったロサンジェルス・タイムズのスタッフ・ライターに及び、「日本人の特技であった」「あまりに孤立し、島国的な偏狭さ」(スウェーデン・アカデミー事務局長自身の言葉)は「どうやら日本人の特技ではなくなろうとしている」と著者は一旦結論づける。
 この後、ル・クレジオはクロード・シモン(過去同様にノーベル文学賞を取ったフランス人作家)ほど優れてはいないが、文学賞など作品の文学的な価値の評価の基準たりうるとは思っていないから、一応優れた作家であるル・クレジオであろうが、川端であろうが村上春樹であろうが、誰が受賞しようともそれに反対などしないと話は続いていく。

 さて、まったくもっておっしゃるとおりの議論であるが、ここまでは(蓮實氏はともかく、このブログにとっては)前振りである。
 ここで唐突に(そう見えないように周到に叙述されているが)話は内田樹のブログの話になる。そこにこう書いてあるというのだ。

「蓮實重彦は村上文学を単なる高度消費社会のファッショナブルな商品文学にすぎず、これを読んでいい気分になっている読者は『詐欺』にかかっているというきびしい評価を下してきた。
私は蓮實の評価に同意しないが、これはこれでひとつの見識であると思う。
だが、その見識に自信があり、発言に責任を取る気があるなら、授賞に際しては『スウェーデン・アカデミーもまた詐欺に騙された。どいつもこいつもバカばかりである』ときっぱりコメントするのが筋目というものだろう。
私は蓮實がそうしたら、その気概に深い敬意を示す。」
http://blog.tatsuru.com/2008/10/

 (上の箇所は、村上春樹ノーベル文学賞受賞のコメントの予定稿をS,K,Yの三新聞から求められた、という前振りに続く部分である。)

 内田樹からすれば、自分のようなチンピラのブログごときを御大が気に留めるとは思わなかったのだろうが、「あるブログにそう書かれていたと教えられ」て読んだ内容がよほど気に障ったのか、蓮實氏はわざわざ反論している。

 この内田氏のブログに対する蓮實氏の、
「この書き手の夢があっさりついえさったいま、この頓珍漢な文章に律儀に答えることはあるまいが、」
とのキツーイ前置きとともに始まる批判をだいたいまとめれば、次のとおりである。
 ・別に受賞に反対しない。(理由上述)
 ・内田の敬意などいらない。
 ・村上春樹を評価できないのは、「たかだか『近代』の発明にすぎない『国語』を自明の前提として書きつつある自分への懐疑の念が、この作家にはあまりにも希薄だ」から。「高度消費社会のファッショナブルな商品文学」などという「通俗的な理由で」否定しているのではない。
 ・ル・クレジオが今年受賞するのは周知の事実だった。そんな情報収集能力のない程度の低い記者に「適当にあしらわれているという屈辱感がまるで感じられない」。
 ・ノーベル賞の「受賞によって、『村上文学の世界性』が証明されるなどと、本気で思っている大学の教師がいるのだろうか。やれやれ。」 


まあ、最初の、別に受賞に反対しないのに、という点は、内田も、
 村上春樹が受賞した際に「スウェーデン・アカデミー・・・もバカばかりである」と
 (言えるものなら)言ってみろ、(言えないだろう、)
と挑発しているだけで、
「反対しろ」
とまでは言っていないので、いささか被害妄想的だが、内田の真意はおそらく「反対しろ」ということなのだろうから、大した違いはあるまい。

 いずれにしろ、万一村上春樹がノーベル賞を取ったときに蓮實氏がコメントを求められたら、たいした作家ではない、と自論を述べるのは目に見えている。そもそも、ノーベル賞受賞者の批判は、内田氏にとってはとんでもないことなのだろうが、大した賞ではないと考える人も結構多いはずだ(佐藤栄作が平和賞を受賞して以来、特にそうだろう。大江健三郎の文学賞受賞の際にも、実力を否定した人はいなかったと思うが、「戦後民主主義」とか、記念講演を批判した人は結構いたと記憶している)。

 なお、蓮實氏ははっきり書いていないが、内田は受賞コメントの予定稿の中で「『村上春樹のノーベル文学賞受賞』というような日本文壇をあげてことほぐべき事件」と述べて、村上春樹がノーベル賞を取る=日本の文壇(日本人?)はこれを祝うべきということに一点の疑問も抱いていない。まさに蓮實氏言うところの「あまりに孤立し、島国的な偏狭さ」に陥った、「はしたない」議論を展開していると言えよう。

この項続く。
 

2010年12月23日木曜日

草原の零度

 もう1つだけ。映画版「ノルウェイの森」と小説版の大きな違いは、京都郊外の療養所近くの草原の体感温度だ。
 小説では、暖かな、のどかな空間であるのに対して、映画版では、強風が吹き荒れたり(そこで手コキしてもらう)、朝露で濡れそぼっていたり(そこを薄ら寒いシャツ一枚で延々歩き回り、普段穏やかな直子がキレる)、沼のようになっていたり、雪が積もっている(そこで咥えてもらう)。何かと寒いのだ。これは、療養所の室内の温かさ、緑とのラブシーンの快適さ(夏の室内でのどこか涼しげなキスシーンはもちろん、雪の中の愛の告白シーンは、柔らかく抱き合う中にどこか暖かさを感じさせるのだ)との対比なのかもしれないが、その厳密な意図は、今のところよく分からない。

人生の教師

 「ノルウェイの森」には、素敵な彼女を持ちながら大学生で70人斬りを達成したという永沢という男が出てくる。主人公のワタナベは、永沢の彼女であるハツミさんの自殺後、一度も永沢に会っていない、と言う。なぜ永沢を毛嫌いするのか。
 それは、近親憎悪である。直子がいながら緑を愛したワタナベくん、直子は自殺・・・。永沢と同じじゃんか。
 ある意味では、永沢の性的遍歴は、「複数の女を愛するのもアリだよ」というメッセージとなって、後のワタナベの行動に影響を与えているのである。そのせいで結局直子を失い精神の奈落の底に落ちたワタナベが、永沢を憎むのも当然なのかもしれない。
 死に向かう直子を止められなかったワタナベ、という読みをしているようでは、人の罪深さが分かってないですな。あ、えらそー。

2010年9月23日木曜日

Original 芯

 「ノルウェイの森」の続きを読んだから、いつぞやの宿題を片付けておこう。
 宿題というのは、この小説に、「緑(という大学の同級生の女性)と恋に落ちたワタナベくん(男性。主人公)が、もう一人の思い人直子(死んだ親友の彼女で、精神病院入院中。彼女はワタナベくんを愛してはいない)との関係の維持できないと思い始めた」というくだりがあったかを確かめるということだった。

 緑と互いの愛を確かめ合ったワタナベくんは、直子のルームメイトのレイコさんにそれを手紙で知らせる。
 しかし、レイコさんから、それは自然なことであり、気に病む必要はない、ただ直子に言うのは危険だからやめようという返事が来る。ここがミソである。
 おそらく多くの女性の読者は、緑と深い関係になることを選択したワタナベくんは、直子との関係を変えざるを得ない、と思うかもしれない。しかし、男性の視点で言えば、必ずしもそうはならない。この時点で、直子はもともと精神病院にいて滅多に会えず、ワタナベくんはもっぱら手紙を通じてしか直子とコミュニケーションをとっていないのである。緑とよろしくやって、直子との関係も今までどおりにするなど、造作もないことである。ワタナベくんはそれを気に病むような男でないことは、前半の場面に散りばめられた他の女性たちとのストーリーで明らかである(というか、ワタナベくんが男であるという一点からして明らかである。男とはそういうものだ)。よき相談者のレイコさんも、緑とのことを直子に言わなくていい、と都合のよいアドバイスをしてくれているではないか。
 このようなものの見方は、男女の愛は1対1の関係でなければならぬと信じる平均的女性たちにとっては許しがたいものであるが、男性の多くは、あわよくばこのようなシチュエーションが成り立たないものか、という願望を内に秘めているものである。この小説では、この男性的目線での読みが困難なように書かれていて、だからこそ女性の共感を呼んだのであるが、「困難」なだけであって、男性的目線での読みが全く排除されているわけではない。レイコさんへの手紙にも、僕はどうしたらよいでしょう、と言っているだけであって、「僕は今までのように直子に接することができない」とは書いていないのである。(意地悪な見方をすると、ワタナベくんの手紙は「レイコさんから直子にうまく言っといて。それで直子が壊れても、僕は責任取らないけど。」という手紙にすら見えるのである。)
 直子が自殺する原因も、(周到にそうでないように読めるように書かれているが、)ワタナベくんの裏切りにあることは明白である。(直子は緑とワタナベくんの仲の進展を知らないはずだって?小説で叙述された出来事は、読者に明らかとなった以上、登場人物にとっても常に明らかであらざるを得ないのだ!)
 私が思うに、ワタナベくんが二股をかけたこと自体は、別に反倫理的というわけではない。男とはそういうものだし、いずれにしろ彼は自分の全存在を賭けてそれを選んだのだ。直子が死んだのは、無論ワタナベくんの責に帰すべきである。しかし、それは男のもっとも本質的部分の性質(芯、ね)に由来する行動の産物であり、いわば女性に対する男性の原罪ともいうべきものである。問題は、ワタナベくんが自らの罪を自覚していない点にある。直子が死んで、おそらくはそれが自分の二股と関係があるとワタナベくんもうすうす気づいてはいる。にもかかわらず、(誰のせいでもない、と言うレイコさんに対して)「そんなことはもうどうでもいいことなのだ。直子はもうこの世界には存在せず、一握りの灰になってしまったのだ。」などと独白する主人公。何が「どうでもいいこと」だ。なぜ「そうではない。俺のせいだ。」と自分の選択の責任を引き受けようとしないのだ。そのことが、この男のもっとも反倫理的なところなのだ。ワタナベくんは、小説冒頭部の、直子の死から20年後のシーンで、いまだ直子の死を引きずっており、あまり幸せでないように見える。なぜひきずるのか、それが単なる感傷からでなく、一度も正面から責任を引き受けなかった下衆野郎だからであることは実は明らかであり、それにワタナベくん、作者、ひいては読者すらも気づいていない点が、この小説のまさにベストセラーになった理由である。倫理的な小説など、誰も読みたくはないのだ。
 

2010年8月5日木曜日

やたらメッタら破天荒 残念!! 斬り!!

 破天荒とは、前人未到と同じような意味である。つまり、今まで誰もできなかったことをする、という意味である。
 今日、新聞、雑誌、単行本等で使われている「破天荒」は、ほとんどが「型破りな」「ハチャメチャな」という意味で使われており、それは全て誤用である。(次のサイトを参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E5%A4%A9%E8%8D%92
 一番多いのは、小説の紹介文である。個性的な登場人物が出てくると、すぐ「破天荒な主人公/脇役が・・・」とくる。
 破天荒の意味を一度知ると、「メッタ斬り」シリーズの豊崎由美の文章・対談など、いかにも教養のない人のそれに思える。
 まあこの人の場合、誤用である点を差し引いても、そもそも主人公のキャラ説明に「破天荒」を使いすぎである。他人の小説をメッタ斬りする資格があるのだろうか・・・。

2010年3月2日火曜日

頑固親父 あるいは老害 part1

 何気に買った文芸春秋に、舞城王太郎の小説が載っていた。芥川賞候補作だそうだ。しかし今回は残念ながら受賞できず(池澤夏樹が強力プッシュしたようだが、例によって人間力が足りなかった模様)。と言うか、今回は受賞作なしだったそうだ。
 芥川賞といえば、悪名高き石原慎太郎の選考委員ぶりであるが、昨日その石原都知事が、津波警報発令にかかわらず東京マラソンを開催した点について記者の質問を受けていた。
記者「津波の警報で、中止を検討されたりとかいうことは・・・?」
知事「地震がいつ起こるかわからないのに中止する馬鹿いないじゃない。下らん質問するな、君。ほんとに。」(立ち去る)
記者 (その背中に)「津波の警報が・・・(F.O.)」
知事 (聞かずに立ち去る。)

 完全に質問を取り違えている。地震はいつ来るかわからないが、津波はこの時既に洋上に発生して、太平洋をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしているのだ。(それを知らないヨットマン慎太郎ではないだろう。)

 私が思ったのは、こんな簡単な質問の意味も取り違えるくせに、舞城王太郎の小説はちゃんと読めるんだろうか、ということだ。
 無理くさいな~。

 この項続く。

2009年9月3日木曜日

こころ 私と先生とK 後編

『蓮實 ・・・気になるのはあの「私」の文体と、それから「先生」の文体の差異のなさなんです。あたかも「私」が先生になり代わって語っているかのように、ほとんど「先生」と「私」の文体に差異がないというところが、もう一つ、非常に気味が悪い。漱石がそんなこと気がついていないはずないと思う。気がついていないはずがないのに、いくつか文体上の特徴さえ拾い上げるくらいに、同じ言い回しをしている。/次の問題として、この作品には、少なくとも「私」という形で自分を指示する人物が二人存在するという事実が気になります。第一の人物は話者であり、第二の人物は話者に与えられた手紙に語られている物語の話者であるわけですね。それを、漱石は、ことによったら、どこかで融合させようというような意図さえあったかと思うほど、その二つの「私」の反応等は似ている。それがまた非常に薄気味悪い。・・・』(「『こヽろ』のかたち」 (対談 蓮實重彥 小森陽一 石原千秋) 漱石研究叢書 漱石を語る2 小森陽一・石原千秋編 161頁)

『小森 ・・・ある意味で「先生」の遺書にとりつかれてというか、「先生」のディスクールにのりうつられたかのようにして、「私」の書く行為が形成されている。これは何て言うんでしょう、文体を通して二人の「私」が一体化していくことになりますよね。「先生」は遺書によって永遠に「私」のディスクールを操作し続けるというか、支配し続けるというか、そういうかなり怖い事態が発生していることになります。/蓮實 ・・・(中略)・・・おそらく、フィクションというものは、「私」という一人称の主語が同じ作品に二つ出てきたら、似ざるを得ないという宿命を背負ってんじゃないかって気がするんですね。少なくても、ある種の近代小説の中で、明らかに帰属の違う「私」という言葉が書かれていても、形式的に類似せざるを得なくなっちゃうんじゃないか。 /小森 まさに「私」という一人称の支配力が作用しているわけですね。・・・』 (同上 166-167頁)

『蓮實 ・・・凡庸な人なら、Aの「私」とBの「私」はがらっと変えてしまう。しかし、変える必要がない。なぜならば、ここは抽象化された世界であって、人々は名前をほとんど持っていない・・・(中略)・・・むしろ構造に還元されたものなのであり、その背後に広がっている社会的な背景というのは、とりあえず、括弧にくくってしまう。で、時間的にも括弧にくくってしまう。実は時間的に一世代の違いがあるにもかかわらず、括弧にくくってしまう。とすると、この二つの人物は、どのような葛藤を演ずることになるのだろうかというような構造的な実験です。』 (同上 168-169頁)

最初の引用箇所の指摘がいかにも鋭いですが、やはり二番目の引用箇所の発想が秀逸ですよね。勉強になります。

2009年8月3日月曜日

こころ 私と先生とK

私のテクストと先生のテクストは同じ身振りで書かれている (記憶で引用。明日確かめよう)